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目次
2006/1 『賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ』逢坂喜郎
2006/2 『学校にも成果主義を』門田勝博
2006/3 『犯罪から子どもを守るために』伊藤義巳
2006/4 『今後の大学入試について考えること』中村勝之
2006/5 『小学校の英語必修化について』光岡誠司
2006/6 『さらば「民主主義」』逢坂喜郎
2006/7 『教員免許の更新制』門田勝博
2006/9 『放課後教室で学校が変わる・・・かも』 伊藤義巳
2006/10 『野球“道”』 逢坂喜郎
2006/11 『高校未履修問題』光岡誠司
『賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ』逢坂喜郎

 かつてわが国は大混乱の時代を二度経験しています。一度は欧米諸国に脅かされた江戸末期、今一度は第二次世界大戦における敗戦です。もちろん歴史的な文脈は違いましたが、いずれも国家存亡の危機であり、価値観が大きく揺らいだ時代でした。それを見事に克服し、世界史上の奇跡ともいえる繁栄を可能にした共通の要因は、『国民の平均的な学力の高さと努力を尊ぶ風土』です。

 江戸時代、欧米から大きく遅れていたのは工業化(その必要がなかったから)のことで、実は寺子屋制度などのおかげで、国民の識字率は世界一と言ってよいほど高く、様々な分野の世界一流の研究も多く存在していました。また高度成長期の献身的な働きぶりは良く知られています。ほんの100年ほど前まで、ほとんど外国人すら見たことがなく、世界に背を向けていた国民が、あっという間に新しい世界を理解し、世界第二位の経済力をもつに至るには、その下地になる知識や勤勉さがなければ不可能です。

 我々は今でも、そういった先人の知恵と努力のおかげで、世界中から羨望の的になるほどの豊かさを享受しているのですが、どうも雲行きが怪しくなってきました。

戦後史上初の人口減少、数年内には大増税必至の最悪の財政状況、数百万人とも言われるフリーター、ニートの問題が出てきましたし、環境問題も放置できません。出口の見えない問題が山積していると言って良いでしょう。

 このような状況に対し、問題解決能力を育むべく導入されたのがゆとり教育だったのですが、ご存知のとおり学力の低下は目を覆わんばかりです。にもかかわらず子どもたち自身は成績よりもお金のことばかりを気にしているように思えてなりません。実際テレビを見れば、才能のあるスポーツ選手だけでなく、茶髪のショップ経営者やデイトレーダーが一見容易く億単位のお金を稼ぐ時代ですから、子どもたちが彼らに惹かれるのも無理からぬことかもしれません。

 しかし、誰もがイチロー選手になれないのと同じように、誰もがビルゲイツやヒルズ族になれるわけではないはずです。我々大人は、高給という結果のみの夢を子ども達に語りすぎではないでしょうか。二度の奇跡を起こした時の価値観が失われつつあることに危機感を抱かざるを得ません。このままでは今以上に社会の階層化が進んでしまい、国の根幹がいよいよ崩壊しかねません。

また、就職などで学歴不問を謳っていても、努力すべき時に努力した人間はそれだけの知的投資をしてきたわけで、運任せで自分を磨いてこなかった人間が勝てるはずがないというのが道理です。努力をせずとも成功を夢見ることができる、ギャンブルまがいの出たとこ勝負の社会と、努力が報われるような社会とどちらが活力のある健全な社会なのでしょうか。

 景気が戻ってきたという話を耳にしますが、現代が混沌の時代であることには変わりがありません。今必要なのは小学生に株式投資の仕組みを教えることなのでしょうか。子どもたちのためにも、そしてこれからの日本社会のためにも(そしてそれはもちろん経済界のためにもなりますが)、必要なのはしっかりとした歴史教育を行って、私たちが先人たちの努力の上に暮らしているということを認識することだと考えます。三度目の奇跡が必要な今、伝統的な価値観の復権を願います。 

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『学校にも成果主義を』門田勝博

 学校は変わりつつあります。文部科学省が最近発表したものでは、2004年度、全国の公立学校で授業内容・学校運営などの評価を受けるいわゆる「外部評価」を実施した割合は、約80%になるそうです。「地域・家庭との連携」「授業内容」「学校行事」「学校安全」などの項目を評価しています。学校の教育活動・運営に関してこのような評価制度が定着していくのは良いことだと思います。

 しかし少し前のニュースにこのようなものがありました。学校の校長経験者の年金額について、校長経験者と中央省庁の次官経験者を比べると、月単位で校長経験者のほうが高いというものです。ごく少数の国のエリートである事務次官に対し、3万人以上いる校長にその優遇措置がとられているということは自然でしょうか。これは30年以上前に成立した「教育職員人材確保法」により決められています。その名の通り、人材確保のためにそうなっているのですが、今や教員は余っており、時代にそぐわないことは明らかです。

 残念ながら、良い人材どころか、指導力不足教員の増加や教員の不祥事はあとを絶たないという現状です。教員に対して一律に給与面を待遇するという、この法案の廃止・改正といった流れに向かっていくのだろうと思いますが、それだけでは根本的な解決にはなりません。

 現行の制度では、熱意ある教員、指導力に優れた教員、生活指導や進路指導に力を発揮できる教員、部活動にかかわり実働時間が増えてしまっている教員に対して、優遇はありません。一方、指導力不足といわれる教員、反社会的行為を行った教員の措置は一般社会と比べ、随分と甘いように思われます。少なくともこのような教員についてはすぐに免許を取り上げるなどの厳しい措置を行っていくべきです。

 実力や能力が待遇に反映されないシステムを廃し、学校現場でも成果主義が導入されていく必要があるのではないでしょうか。冒頭で述べた、多くの学校が導入している外部評価を活かす意味でも、今後の教員評価と優遇措置を見直す時期に来ていると思うのです。すでに、年功序列・終身雇用の時代は終わりとまではいかないまでも、成果主義へと世の中は切り替わっています。教員だけがその流れに乗らず、現状のままでよいという理由などありません。

 教員の成果を評価とは何を持って図るのかという問題は残されるにしろ、まずは、具体的な数値目標とある程度統一された基準を設け、保護者・教育委員会・校長はじめ同僚の教職員・生徒児童らが公平に判断できる体制作りが必要だと思います。そして教員個々の評価が待遇に反映され、やる気を引き出し、その結果として教員の質、教育力を上げるという方向に向かっていくべきだと思うのです。

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『犯罪から子どもを守るために』伊藤義巳

 児童や園児が犠牲となる、誠に痛ましい事件が相次いでいます。ニュースを見るたび、その卑劣な行為に憤りを押さえることが出来ません。子供たちが二度と悲惨な犯罪の犠牲とならぬよう、私たち大人は子供を守る術として何をすべきなのでしょう。自分の子供は自分で守るしかないという結論で良いのでしょうか?

 警察庁の資料・統計(平成6年から平成17年)によると、少年(0歳から19歳)の犯罪被害の認知件数は全体的に横ばい、もしくは増えている傾向から、ここ4年の間は減少傾向にあります。しかし劇的に減少した訳ではなく、未就学の子供が被害に遭う人数は10年前と比べ、依然、高いままであり、安易に減少傾向にあると喜ぶことはできません。

 では私たち大人が子供を守るために何が必要なのでしょうか。学校、自治体、保護者で講じられている防犯対策として、IT技術を利用した機器の利用、防犯ブザー、地域パトロール、集団での登下校、危険マップの作成、不審者情報の開示と共有、大人が子供に積極的に挨拶をする・・・などが挙げられます。その中でやはり、地域社会の役割がとても大きく、必要なこと、効果的なことだと私は思います。

 核家族化が進み、個人の自由と平等、個人の権利が声高に主張され、他人からの干渉を嫌い、今までの価値観は古いと否定し、個人の生活のみを善しとし、地域との交わりが希薄となり、必然、自分が関わる世界がごく狭くなってきたように思われます。他人の子を叱ると逆にその親から余計なお世話だと逆に文句を言われる、というのはよく聞く話です。

 そうした中、地域の大人が、子供たちを犯罪から守ろうとする動きが活発になってきたことはとても喜ばしいことだと思います。事実、保護者や町内会、自治体を中心とした地域の防犯ボランティアの数がかなりの割合で増えているという報道も先日ありました。こうしたことが平成17年に犯罪被害が減少に転じた理由の一つと考えたいものです。

 学校と保護者、ならびに地域の大人が協力する関係が一過性のものではなく、当然の如く定着することを望みます。こうした協力のもとで子供を守るという行動は、犯罪の抑止力だけでなく、子供たちに善悪を教えるといった道徳的な教育効果も高いと思います。やがては卑劣な犯罪者を生み出さないことにも繋がるものと期待します。

 他人からの干渉を嫌い、子供を守るために個人の力のみに頼らず、地域の協力を得ること、自らも積極的に加わること、そして子供も大人も互いの顔を知るという社会が今、必要になってきているのではないでしょうか。

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『今後の大学入試について考えること』中村勝之

1997年に新課程入試がありましたが、その時はいろいろと問題があったことを以前のコラムに書かせていただきました。そこから月日を経る間に教育界は激変し、今回は「ゆとり教育」なるものが導入されての入試元年となりました。入試自体は特に問題もなく終わりましたが、各主要大学の問題を眺めてみると「ゆとり教育」に対する配慮はほとんど無かったように思われます。

やはり大学の取った態度は「勉強せざるもの来るべからず」というものでした。思い起こしてみると大学紛争たけなわの昭和44年に東の雄、東京大学の入試が中止になったことがありましたが、そのとき西の雄、京都大学の数学入試問題は中学生でも解ける、いや、小学生でも解ける問題も出されました。今でも忘れられませんが、確か次のような問題でした。「運動場のトラック1周の長さを求める問題で、円周率を何と3ならぬ22/7として求めよ」というものでした。

我々は必死になって、入試問題の傾向を分析し、予想するわけですが、入試の歴史をこうして振り返りますと、何が出されるのかわかったものではない、と正直に認めなければならず、特に今年は“ゆとり元年入試”として心配していたわけです。

 しかし、全体的に見ると問題の質が変わらないものが大半なわけですから、「ゆとり教育」の時代に入ったと言っても、受験をめぐる競争は厳しいものであると言わざるを得ません。それは、教科書の内容が3割削られようが入試の現状は変わらないということです。

やがて大学全入時代がやって来るということですが、受験界の現状は依然として厳しい状態が続く訳ですから、全ての大学が誰でも入れるようになるとは思えません。やはり生き残りをかけた有名国立大学や、有名私立大学には、厳しい選抜試験というものが残るはずですし、このような大学に入りたい、あるいは入らせたいという学生や親がいることも事実です。

このことに関連して注目すべき次のような調査報告があります。大衆の心理を教育社会学の視点から分析した苅谷剛彦氏の著書で、『いわゆる一流大学生の親の職業を調査し、「一流の職業に就いている」人がどれくらいの割合でいるか調べた結果、入学者の四分の三を占める』という驚くべき調査結果でした。

これらの事からしても、主要大学への受験生の流れは、「ゆとり教育」がもたらされたとしても、関係なく続き、問題が「ゆとり」のような内容にはなり得ないと思われます。大学全入時代が来たとしても主要大学は競争の原理がそのまま維持されるということを今年の入試問題で再確認した次第です。


『小学校の英語必修化について』光岡誠司

英語学習は早ければ早いほど良いとお考えになるのは理解できます。しかし英語や英語教育に関しては、『通説』を通り越して、ほとんど『神話』と言っても良いほどの誤解があることを、まずは確認していただきたいと思います。

よく言われる“中高大学と10年間英語をやっても、しゃべることができない”、という言われ方です。“アメリカなら5歳の子でも流暢に話すのに…”というやつですね。そう言いたい気持ちはわかりますが、的外れです。

これを聞くたびに私は漢文の例を出すのですが、“返り点、一二点”などを駆使して中国人にはまったく伝わらない読み方を発明し『師いわく…』などと日本語に“読解”し、味わい、そこから何かを学んできたのが日本人です。漢文は読めても話せないではないかという批判は聞きませんし、英作文ならぬ『漢作文』など入試でお目にかかりません。

英語も同じです。大学入学後、英語で専門書を読むのが目的ですから、大学が求めているのは読解力。入試にリスニングなどを課す大学がいまだに小数なのはそのためです。発信型の英語ではないのですから、話せなくて当然なのです。外国のことを学ぶため、昔は漢文、明治以降は英語を正確に読み、知識を吸収することによって、驚異的な成長を遂げてきたのです。

話せないかわりに、日本のトップレベルの大学受験生は、欧米の標準的な18歳よりも難しい英語を読むことができます。外国人に入試問題を見せると一様に驚きます。“本当に日本の18歳はこの英語を理解できるのか”と。そういう時には、『当然だ、難しくない』と答えることにしています(笑)。

また、日本人の英語力がトイックなどの国際比較の点数でアジア最低と言われる時に、必ず付くコメントが、『文法はできても生きた英会話ができない』という英語教育に対する批判です。これは英語の専門家の中にもかなり蔓延しているひどい誤解です。日本人の点数が低いのは、会話ではなく読解です。

実は今の日本人は国際的に見ても会話はできるのです。得意であったはずの読解ができないために、点数が下がっているのです。

以上のようなことをふまえて、小学校ではどうするべきかを論じてもらいたいのです。現状分析を誤っては、対策も的外れになります。といってももう紙幅がありません。小学校の英語必修化の問題点をあげておきます。

@教える人:小学校の先生方が担当されますが、英語を教える経験も資格もありませんから、ネイティブスピーカーが補助をします。ALTと呼ばれる彼らは、ほとんどが子どもに教えた経験すらない、アルバイトの人々です。

A統一性、効果と評価:『日本教育新聞』の数多くの例を見ますと、各小学校、進め方はバラバラです。近くのアメリカンスクールと交流するというものもあれば、毎日、英語に時間を割いていたり、劇をやったり、歌を歌ったりなどなどです。これでは結局、効果を比較できず、良し悪しの評価も定まりません。

B連携:一方、中学英語は何も変わらず、1年生として同じ中学に入学してくる別々の小学校の出身者の英語をどう扱うべきか苦慮します。ちょうど、ゆとり教育でも、公立校の学習内容が減っても、大学入試レベルが変わらないために、高校・大学の学習面のつながりがなくなりました。

C低学年ゆえの危険性:ベッキーや宇多田ヒカルのようにバイリンガルをめざすには、環境が整っていない場合、実はかなりのリスクがあります。心ある研究者たちは、必死でそれを訴えています。言葉の『話す』以上に大切な役割は『考える』道具ですから、どっちつかずになると精神的に不安定になります。

D教科時間:ただでさえ少ない授業数を、さらに英語にまわし、結局、国・算・英どれも中途半端にならないかという心配。国際人を目指すなら、まずは日本語で日本のことをしっかり説明できるだけの教養を身につける方が大切です。

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『さらば「民主主義」』逢坂喜郎

 東京都では公立学校の職員会議で教職員による挙手・採決が禁止されました。話し合いの場であるはずの職員会議で、現場の教職員の声を抑えつけるような教育委員会のやり方に教職員組合は反発、即時撤回を求めました。

 また、民主主義を教える学校から「民主主義」が消えてしまうという識者の声も多数出ています。確かに「挙手・採決を禁止する」と言うと、どうしても「独裁」を連想してしまいます。しかし現状は果たして、報じられている通りなのでしょうか。

 現場の話し合いと言ってしまえば聞こえは良いですが、職員会議の実情は酷いものです。例えば、卒業式・入学式のシーズンになると生徒そっちのけで、日の丸・君が代で何時間も揉めるのが職員会議です。その一方でそんなことに関心の薄い教職員は、我関せずと居眠りをしたり、定期試験の採点をしたりするという実態も存在します。

 組合の政治闘争や無気力な教職員など、今学校が克服しなければならない問題が、現状の職員会議に凝縮されていると言っても良いのではないでしょうか。いくら外から新しい血を入れて学校を変えようとしても、現場の「抵抗勢力」が職員会議を盾に足を引っ張るのであれば何も変わりません。

 かつては職員会議を学校運営上の「最高意思決定機関」とする解釈さえありました。現在では、学校教育法施行規則第23条の2の規定(『校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議を置くことができる』)に基づき、校長による学校運営の補助機関という理解が一般的ですが、教育現場の慣行として、そのような体質がまだまだ残っていることは、毎年の日の丸・君が代問題を見れば明らかです。

 東京都教育庁学務部は「校長がリーダーシップを発揮し、スピーディーで透明性のある意思決定と学校運営を目指し、教育の質の向上を図りたい」と通達の趣旨を説明しています。

 その意味するところは政治闘争の場と化している職員会議を正常化し、改革の意図や結果に対する評価について、運営責任者である学校長が説明責任を果たせるようにすることが最大の狙いではないでしょうか。

 学校は現在疲弊しきっているように思えます。制度疲労と言って良いのかもしれません。世間からは指導力不足教員が糾弾され、教育現場からは過剰な負担に対する悲鳴が聞こえてくるのが現状です。このような中で、日の丸・君が代を始めとする政治闘争のための職員会議が1日に5時間も6時間も行なわれうることに異常なものを感じます。

「民主主義」の仮面を被った政治闘争は学校には不要です。即刻「退場」を求めたいと思います。

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『教員免許の更新制』門田勝博

先日、教員免許の更新制についてのニュースが新聞各紙に出ていました。これは、すでに資格を持っている現役の教員も含め、免許の有効期限を10年と定めて、さらに更新制にすることが、文部科学省の内部機関である中央教育審議会の教員養成部会で決定したというものです。

教員の質を高めるというのが目的で、更新前の2年間で30時間の講習を受ければ免許が更新されるとのことです。講習の内容は、教科にかかわらず「およそ教員として求められる内容をベースに、その時々で求められる資質能力を確実に身につけることができるということです。

学力低下の問題をはじめ、教育現場には問題が山積みされています。また、多くの熱心な先生が日々努力されているのに対し、不適格であろうと思われる教師の言動が報道される事がなくなりません。教師の威厳というものが確実に下がってきています。不適格だと思われる教師に対して、免許を更新しないというのは必要なことだと思います。

更新制は必要ないという議論もありますが、免職されても他の県・自治体では教員になれる可能性があることを考えれば、一度不適格であろう教員に対し免許を剥奪することは必要です。しかしながら、この更新制度だけでは教員としての資質が上がっていくのかどうかは、やはりその制度の中身にかかっています。

運転免許更新のように、ただ映像を見て更新というわけにはいきません。教科専門性や指導力、対人関係のスキルというものを、この免許更新制度によってどのように上げていくのでしょう。例えば模擬授業・その模擬授業に対する討論というのは必要だと思いますし、このような更新制度の中身も問われてきます。

 免許を取得して、10年に一度の更新だけで十分だとは思いませんが、まずはそのようなことでも必要だと思います。学校教育がよりよい方向へ向上していくきっかけとして、まずはこの更新制度が中身までしっかり伴ったものとしてで制度化される事を望みます。

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『放課後教室で学校が変わる・・・かも』 伊藤義巳

文部科学省と厚生労働省が連携し、来年度から全公立小学校で放課後教室として児童を預かる事業を実施するというニュースが先月末にありました。

その目的は安心して遊べる居場所作り、子育ての負担軽減による少子化対策、および大量の退職教員への再雇用と経済的に塾に通えない子供たちへの学習機会を増やすことなどとして文科省、厚労省は挙げているようです。

放課後教室の内容は詳細を省きますが、大きく分け、学び、スポーツ、文化活動、お年寄りとの交流、遊びといった様々なプログラムがありました。全児童が決められた時間までは無料で毎日参加でき、なおかつ、共稼ぎ家庭の子供に対しては有料で時間を延長することもできるそうです。

この記事を読み、これからは学校を中心とした地域のコミュニティーが出来るのではないかという思いがしました。子供たちが近所のお年寄りや保護者、ボランティアたちと接することで、普段学校や家庭内だけでは経験することができない様々な刺激を受けることだろうと想像できますし、それらは子供たちにとってプラスになるだろうと考えます。また学校に行くことでご近所との繋がりが持てるという保護者自身の安心感も生まれるかもしれません。

しかし、気になる点も幾つかあります。既に行なわれている学童保育をどうするのか、果たして放課後教室が用意するメニューに対して地域のボランティアが集まるのかどうか、各小学校がどれだけ力を入れ、本気で取り組むのか・・・やはり地域、学校規模によって差が出てくることは否めない気がします。学童保育の代わりとして利用するとなれば、長期休暇の際の扱いが問題となります。これらをどのようにクリアしていくのか、各地域、学校の力量が問われるところでしょう。

また学びに関しては、あくまでも自習が中心となり、子供たちの質問に学習アドバイザーなる、教員OBや教員志望の学生が答えるという形態になるでしょう。それだけで学力云々という期待はしないほうが良いかもしれません。

文科省及び厚労省のHPを見ても詳細は出ていませんでした。まだまだ細かい部分で修正や検討する余地は十分に残されていると思います。冒頭にあった目的は個人的には感心しませんが、子供たちを各年齢層の地域の大人たちが守り、教え、育てていくという主旨と捉え、上手く機能して欲しいと思います。そのためにも両省を含め、我々大人たちも出来ることを協力し、実践していきたいものだと思います。そうした意味でこれからの学校の在り方や価値観が変わる可能性に期待します。また安全面に関しても十分に注意していただきたいと最後に付け加えておきます。

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『野球“道”』 逢坂喜郎

甲子園のエースは大学を選びました。彼は「人間的」に成長したいそうです。

でも、彼の紳士的な態度をみていると、もうこれ以上求めるものはないかのようですが、おそらくそこが彼を一流にしているのでしょう。

甲子園で活躍した選手の話を聞きますと、自分は特別なのだという錯覚に陥ってしまいがちだそうです。確かにあれだけ連日マスコミに追い掛け回されたら、何か自分が芸能人であるかのように思えてきてもおかしくはないでしょう。

また仮に大学に進学しても体育会独特の上下関係に馴染めず、退部を余儀なくされるケースも多々あるようです。

斉藤選手はこれまでの野球人生で、決して野球バカにならないように躾けられてきました。野球人である前に一人の紳士になるように教育されてきたわけです。進路報告の記者会見では、隣の椅子も直して退場していました。

彼がいかに野球を通して人間教育を受けてきたかを物語るエピソードと言えるでしょう。ギリギリの勝負をする世界では、最終的にはメンタリティが勝負を左右します。斉藤選手が自らを厳しく律するのもそのためでしょう。

一方、斉藤選手と対極にあるアスリートと言えば、ボクシングの亀田選手ですが、彼もまたこの事をよく知っている選手の一人でしょう。

礼節を欠く態度はさておき、大口を叩くだけのハードな練習を積み、これだけやったら負けるはずがないという「心のコンディション」を作り上げて相手に挑んでいく。斎藤選手と違うのは、ボクシングのショー的要素を上手く利用して戦っているところでしょう。少なくとも今のところは。

これに対して斎藤選手は「道」として野球を追及しています。欧米のスポーツ文化とは違って剣道・柔道などのように、己の「心」「技」「体」を磨く術として、今後も野球「道」を貫くはずです。

痩身を気にしてプロを避けたのではないでしょう。24時間野球に集中できる環境の方が遥かに身体は早くできるはずです。大学の体育会では食事・睡眠などの健康管理は原則として本人が行ないます。兄と二人三脚でやってきた自己管理も更に高いハードルを越えることが今後求められます。

彼は自立したアスリートを目指します。ハードルを自分自身で設定して上げていけるからこそ一流なのでしょう。

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『高校未履修問題』光岡誠司

まず自殺をされた校長先生がいる一方で、いまだに未履修に対して知らん顔を決め込んでいる学校があります。生徒たちは自分自身が世界史や家庭科の授業を受けていないのを知っていますから、彼らに“一緒にだまっていよう”と言っていることになります。最低の教育です。私が直接生徒に聞いただけで、5校もあります。全国でどれほどあることでしょう。

 こういう学校は、“君たち生徒のためだ”、と言いながら、実は校長の立場や自分の組織を心配しているだけ。推薦書類や内申書で、また教育委員会に虚偽の報告という犯罪を、生徒と一緒に隠すのです。これでは、正直者はバカを見て、“ウソをついた方がトク”という教育ですから、まじめに規則を守っていた高校はだまっていられないでしょう。

 ただ、それにしても未履修の学校が多すぎます。私がゆとり教育導入に反対した理由の一つは、公立の小中高校の学習内容を減らす一方で、逆に国立大学の受験科目を増やすという、明らかに矛盾だとわかる政策だったことです。

 そんなことをすれば、ますます学校と受験の実情が乖離し、高校の授業は、進学希望の生徒の興味を失うものになると指摘しました。その通りになりましたが、それを受けて、学校は正当な努力をするのではなく、虚偽の報告という不正手段に訴えたわけです。

つまり、現場を知らない文部科学省や教育委員会の指示など、高校側から完全に無視されていたということです。文科省は、学校を“指導する”、校長を“教育する”などという前に、自らの体質やその政策を反省する必要があります。

そして、こういう時、教育界の一番の問題点は、責任が明確でないことです。学力低下問題や、ゆとり教育の問題にしても、誰も結果に責任を負いません。生徒がいじめで自殺した事件でも、“いじめ”を隠そうとする教育委員会や学校側の態度は許しがたいものでした。

 自殺の原因を“いじめではない”とすることで、校長や教育委員会の責任のがれになりますが、同時に、いじめをした生徒を罰したり、再教育したりすることもできなくなってしまうのです。もちろん教員も処分されません。子どもの命が絶たれているのです。それでよいはずがありません。

 今度の未履修の責任はどうなるでしょう。文科省は、補習は70時間や50時間でよいなどと言っていますが、自分たちの監督責任について、私の知る限りは言及していません。

 ウソの申告をした校長らは罰せられるのでしょうか。また、校長一人で時間割を組めるはずがありません。教頭、教務主任など、時間割にかかわった連中も知っていたはずです。しかし、おそらく補習さえすれば、それ以上の責任追求はないでしょう。卒業生に対する補習など、ちょっと考えられません。

では誰が責任を取るか、考えてみて下さい。大人たちの責任逃れのあげく、結局、今年の受験生に、“補習”という形で、すべての責任を押し付けてしまうことになりませんか。現役生が一番伸びる今、受験と関係のない授業を何十時間も聞かされるなど、たまったものではありません。そして、それをすべての免罪符にするなど、とんでもないことです。

本来なら、補習ボイコットをしても良いくらいのひどい話です。ところが制度上、受験生は逆らえませんね。単位をもらわなければ大学受験資格がありませんから。福岡で自殺した中学生も、先生にからかわれていましたが、絶対評価では、内申書が先生の印象で左右されてしまう以上、やはり逆らえない、この構図とだぶりませんか。

最近、報道された、文部科学大臣に対する自殺予告の手紙、以前にもあり、嫌がらせなら卑劣この上ない出来事ですが、そうした理不尽な制度に対する、子ども自身の心の叫び、あるいは反乱ではないかと感じています。“学校に行きたくない!”という意味の…。

このように、今回の一件も、教育界の人々の無責任さが露呈されてしまいました。このままでは、自殺も無くならないし、この無責任体質も温存されてしまいます。こんな空気の中でまともな教育がなされているとは到底思えない、非常に残念な事件でした。まずは、文部科学省は解体的出直しを図る以外ないと思うのですが、いかがでしょうか。

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