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目次
2001/ 6 『円周率が3?』伊藤義巳
2001/ 7 『数学なんていらない?』伊藤義巳
2001/ 8 『学校内での自由とは』伊藤義巳
2001/ 9 『教育の危機』伊藤義巳
2001/10 『教育路線のダッチロール現象 〜センター試験5教科7科目へ〜』吉岡敏男
2001/11 『公立高校の現状と行く末』光岡誠司
2001/12 『進路指導 〜偏差値の存在意義〜』伊藤義巳

『円周率が3?』
  伊藤義巳 (2001/6)

 教科書改訂により、小学生で習う円周率が今までの3.14から3に変わる事はもうご存知だと思いますが、本当にいいのでしょうか?3.14が3に変わり、確かに計算は楽になりますが、それで単純に良くなったとは言えません。3.14を含む計算は大人でも面倒です。
 例えば3.14×16という計算があったとしましょう。10人の生徒のうち4人間違ってしまいました。しかし間違え方は4人ともバラバラなはずです。ある生徒は繰り上がりで 間違ってしまい、ある生徒は小数点の位置が違い、またある生徒は筆算の仕方が雑なために間違ってしまいました。問題はこの後なのです。なぜ、どこで、間違ったのか、
生徒が自分の失敗を知り、同じ間違いを繰り返さないようにするためには、指を使って繰り上がりの計算をする、丁寧に筆算の式を書く、字を大きく書くなど、自分の間違いに 応じてこれからどうやって計算すればいいのかを考え対策を立てる事が大切なのです。
 必ずしも大人から見てそれがベストの方法とは限らないかもしれませんが、生徒のそういった自主性、集中力、工夫、判断力、思考力を養っていく事こそ本来の勉強の姿である
はずです。計算が楽だから、間違いが減るからという安易な発想により、円周率を3にするという教育方針に今一度疑問を投げかけてみたいものです。円周率3にして正解率は
上がるが、応用力も、工夫も、思考力もつかない計算と、円周率3.14。面倒だが根気や工夫、思考力、判断力がつく計算。皆さんはどちらを選択されますか
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『数学なんていらない?』 伊藤義巳(2001/7)

数学を苦手とする人、あるいは文系の人が多く持つ疑問だと思います。ご父兄の中にも少なからず同じように思われた方がいらっしゃるかと思いますし、また、そのような質問をお子さんから質問された経験もあるかと思います。今回はこのテーマを取り上げてみたいと思います。今すぐ自宅から東京駅へ行きなさい。と言われたらどう答えますか?電車、車、自転車、タクシー、徒歩、バス・・・様々な答えが返ってくるはずです。まずこれら東京駅へ行くため の方法(手段)にあたるのが数学では〜公式〜になります。では、お金をいくら持っているのか、何時までに着けばいいのか、車があるかないか・・・ 様々な条件により、方法(手段)が限られてくるはずです。これが数学では問題文に与えられる条件〜仮定〜です。与えられた条件〜仮定〜を加味し、どの方法で行くのがベストか判断し、結論を出すことが、数学でいう的確に、最善の方法で答えを求める事、証明する事に他なりません。いくら条件〜仮定〜を読み取る事が出来ても、方法(手段)〜公式〜を知らなければ、適切な答えには至りません。逆に方法(手段)〜公式〜だけ知っていても、与えられた条件〜仮定〜を読み取り、考え、判断する事が出来なければやはり、答えは出せません。

つまり数学を学ぶということは、社会に出て、あるいは普段の生活の中で、トラブルや問題が起こったときに、どういった解決方法がベストなのか、多くの方法(手段)を知り、
状況、条件〜仮定〜から最善の解決策を判断できる思考力を養うことだと思います。習ってないから分からない、知らない、出来ない・・・では通用しないのです。マニュアルがなく
ても、習っていなくても、自分なりに考え、答えを導き出す力をつけるために数学を学習するのではないのでしょうか。数学は不必要だと思われますか?
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『学校内での自由とは』 伊藤義巳(2001/8)

 中学生が高校を選ぶ理由の一つとして"自由だから"と挙げる生徒がここ最近多いように思われます。何をもって"自由"と定義するのか非常に難しい問題だと思います。単に校則が無いということが自由なのでしょうか?個性を伸ばす事と自由とは同じでしょうか?例えば全員が同じ制服を着ているから、個性がないと言えるのでしょうか?逆に私服だからといって個性が出せるのでしょうか?外見だけを捉えて個性を判断する事など出来るはずがありません。流行と個性の混同、個性の尊重は自由にさせること(放任すること)という誤解、、、果たして自由とは何でしょうか。
 自由な学校は素晴らしい面も多々あると思います。しかし現実として、授業中に平気でジュースを飲む、遅刻をする、騒ぐ、携帯電話が鳴る、メールで遊ぶ、、、生徒からすれば 怒られないから、注意されないからそのような行動を平気でしているのです。これが自由ですか?本来あるべき姿ですか?忘れてはならないのは、自由だからこそ、自分で自分の とった行動に対し、責任を負うことになるのです。そして取った行動が間違っていれば反省し、同じ間違いを起こさないようにすれば良く、正しければ経験として今後も活かして 行けば良いのです。ここで大事な事は生徒の行動を見守り、善悪を正す役割を大人が担っているという事です。この事を蔑ろにしては"自由"もただの生徒にとって都合の良い方便となりかねません。
 人が集まれば当然ルールが必要になり、ルールがなければ自分たちで善悪を判断し、ルールを作る、行動を制限する、自重する。このことは行動を規制するためのものでなく、 むしろ自らの将来を見据え、より良い環境に身を置くため、可能性を伸ばすためのルールである事は申し上げるまでもありません。そして試行錯誤する生徒を見守り、時には手を 貸し、叱咤激励し、善悪を教えることが教師、あるいは大人の責務であるはずです。自由だからといって全てを生徒に任せ、(悪く言えば野放し)教師が知らん振りという現状は、 我々大人が学校における自由というものをはきちがえているところが多分にあるはずです。善悪を教えること、これは我々の責任です。
 傍若無人な若者、我慢できない若者、自分さえよければ良い、楽しければ良いと、価値観を持つ若者(大人も?)が増えている現状を打破するためにも、高校へ進学する目的は
何か?学校へ何を学びに行くのか、大人も子供も今一度考えてみる必要があると思います。目的や向上心が欠落したまま"自由"という甘い言葉につられ大切な高校生活を送ることのないようにして欲しいものですし、我々大人も子供達の精神的成長を促すためにも自由、個性、を考え直してみたいものです。
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『教育の危機』 伊藤義巳 (2001/9)

学力低下という言葉が近年、各メディアで取り上げられています。教育改革の気運も高まり、徐々に改善(改悪)されつつあるようですが、今一度、学校教育と学力低下について考えてみたいと思います。
詰め込み教育が非難されていますが、果たして勉強する上で、詰め込みはいけないのでしょうか?物事を考え、問題を解く、解決するためには、まず初めに知識ありきです。知識を身に付けるために、暗記することは不可欠なはずです。英単語を知らずに英語の勉強はできません。元素記号を知らなければ、化学は解けません。古語を知らなければ、古典を読み進めることはできません。当たり前のことです。
ただし、ここで必要なことは、教師が生徒に、知識を"詰め込む"必要性を説き、方法、工夫、効果などを伝えることなのです。実際、暗記は知識を増やすだけでなく、集中力を養う上で役立ちますし、生徒に「時間の使い方、勉強の工夫」などを意識させることができるのです。自分が時間をかけ努力した分に応じて、結果が得られる公平な勉強方法の一部分と言えるのです。

しかし、応用問題の解き方を暗記し、詰め込むことは断じて避けなければならないことです。根拠もなく解法を覚えさせても、応用力などつくはずもありません。数学の授業の中で特に感じることですが、生徒に自分が解いた問題の考え方を尋ねると、要領よく的確に自分の言葉で説明できる生徒があまりにも少ないのです。この点こそ、今の学校教育における最大の問題点ではないでしょうか。

公教育では"ゆとり教育"と称し、教科書内容の削減を打ち出しましたが、"ゆとり教育"とは、単に勉強の内容を簡単にすることではないはずです。この種の考え方に基づいた対策は既に米、英の先進国で実施され、何の効果もないどころか、更なる学力の低下を招いたという現実があります。生徒が知りたいと思ったことに、学年の区別も、文部科学省の指導要項内外という線引きも無意味なのです。

多くの生徒が口にする、「習っていないから解けない…」、「初めてだから分からない…」、ではいけないのです。勉強は、ゲームの攻略本を暗記し、書かれた通りのことをすれば全て解決するというようなものではありません。また教育は、攻略本に書かれたマニュアルを無機的に教え、覚えさせることではないのです。何故そうなるのか、疑問に思うことを解決し、他に解き方、考え方はないのかと様々な角度から検討し、生徒が自力で結論を得られるように導くことが教育の本質であると我々は考えます。これらを疎かにしてきた結果が、学力低下を生み出してきたのです。さらにここ最近は学力低下にとどまらず、応用 力のなさも露呈してきているように感じます。

子供が勉強に対する興味を失い、その本質を忘れ、自主性も応用力も欠落したまま大学生に、さらに大人へとなっていく姿に、我々は恐怖すら覚えてしまうと言っては大袈裟でしょうか。小中高さらに大学と長きに渡り培われる教育が及ぼす影響を真剣に考え、対策を講ずる時です。今後の日本が国際社会において、教育後進国とならないように警鐘を鳴らすべき時だと思うのです。教える側の意欲や創意工夫の欠如、公教育における授業のシステム、学校運営等に問題があることは紛れもない事実です。我々は公の力を借りずとも、教育改革を待たずとも、個別というシステムにより、信じる教育を実践していくことができ、効果を上げていると自負するところでもあるのです。また理想とする教育に近づくよう努力していくことが使命だとも考えております。
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『教育路線のダッチロール現象 〜センター試験5教科7科目へ〜』 吉岡敏男2001/10

今、日本の教育路線は明らかに蛇行〜ダッチロール〜しています。しかもその行く先は悲しいことに真っ暗です。

 各マスコミで報道されているように、2004年の春から、国立大の大半である75校がセンター試験において5教科7科目を課す予定である事が分かっています。5教科7科目以下で受験できるのは、芸術系、体育系の限られた学校になってしまいます。
今春のセンター試験では私立大を含めた全受験生のうち、24%が3科目以下での受験であり、国立大でも90大学169学部とかなりの数に上っていました。単純に考えると、2004年以降、国立大学を受験するためにはこれまでよりも多くの教科、科目を学習しなければならないということになるのです。

いったい日本の教育機関は何を考えているのでしょうか。先ほどの教育制度の改革で小中の学習内容の3割が削減されてしまいます。現在の学習量より確実に減っていくのです。だが高校では上述のことから、センター試験対策のため勉強量を増やさなければなりません。その理由は国立大学協会によると「新入生の学力低下を防ぐため」であり、大学審議会の答申では「複数の教科・科目に基づく知識等を組み合わせ、応用してゆく能力等の判定を目的とする」と謳っていますが、その基礎を養う小学中学ではこれまで以上に浅い学習しかしなくなるのです。にもかかわらず、高校になると、現状よりも更に多量で多岐にわたる学習をしなければならないのです。

 教育行政に携わる人々は、全くもって、相反する行動を取っていると言わざるを得ません。その場しのぎの対応がこのような結果を生んでしまったのです。長期的なビジョンは無いのかと、その愚かな考えにあきれてしまいます。教育改革によって学習時間を削減することで生まれる「ゆとり」の時間ですが、結果として起きてしまう知識の欠如のしわ寄せは、すべて高校生にやってくるのです。これでは教育改革など全く無意味だとしか言い様がありません。そして、このような意味不明の政策に翻弄され、戸惑うのは、当事者であるこれからの子供達なのです。

 5教科7科目試験による学力低下の防止と、学習内容の3割削減。一つの飛行機に乗る二人のパイロットが、まさしく真反対にハンドルを切りダッチロール現象を起こしている、文部科学省を始めとする教育機関に対し、我々はもっと声を大にして、異を唱え、意見をぶつけなければならないのではないのでしょうか。
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『公立高校の現状と行く末』 光岡誠司2001/11

 本メールマガジン8月号に掲載させていただいた都立高校のレポート(現在ホームページに掲載中)に関して、多くの方々からご意見を頂戴しました。 実を申し上げれば、日々高校生と接している我々は、都立に限らず公立高校の退廃ぶりにマヒしてしまっているため、これほどの反響があるとは予想しておりませんでした。同時にひょっとして、一般のご父兄は公立高校の現実をご存じないのかと不安になり、口にするのもはばかられるのですが、今回は筆を取らせていただきます。

 神奈川県立高校の、ある学区の中では進学校といわれるK高校の生徒たちが当教室に通ってくれています。昨年の3年生はここでの厳しい勉強に耐え、今春見事に全国でも最難関といわれるような大学に各々が合格していったのですが、合格後の歓談の中で学校の話をしてくれました。

「私、学校に一年間で25回遅刻した」「俺なんか75回だよ」と言うと「甘いな、俺3ケタだぜ」と言うではありませんか。一年で百日以上の遅刻?彼らは塾には決して遅刻をしないにもかかわらずです。

 呆れました。いったいこの学校は何をやっているのか。遅刻する方も悪いが、それを放っておく方も放っておく方です。更に驚くべきことに、彼らによれば、大学への彼らの調査書には遅刻回数はゼロになっていたというではありませんか!
 こうなると、それを書いた教師は指導の怠慢を通り越して完全にうそをついている、どころか犯罪行為となりかねません。我々には事実を確認する術はありませんが、なにしろ本人たちが言うのですから推して知るべしでしょう。一時的には"恩人"となるのでしょうが、公務員であることを考えれば、その行為は監督者ともどもとても許されるとは思えません。そして何より、こんなことで甘やかされてしまった生徒にとって、その後の人生によい影響があるとは到底考えられないのです。

 さらに生徒たちから直接聞く日々の細かな話を取り上げればきりがありません。"授業中に先生の携帯電話が鳴った""先生が居眠りをしていて生徒が呼びに来るまで授業に来なかった"、などなど、うんざりするほどです。ところが、それが問題として取り上げられたとは一度も耳にしません。
 この学校では学級崩壊の前に職員室が崩壊しています。 また、都立のレポートと同様、神奈川のあるサポート校でもあまりに遅刻者が多いため始業時間を繰り下げたそうです。まさに本末転倒ここに極まれり。反対する教師は一人もいないのか?どうりで授業の始まっているはずの時間に、街で制服姿の高校生を見かけるはずです。そんな彼らに必要なものが"ゆとり"?むしろ"緊張"ではないのか、と言いたくなります。

 常識をわきまえ、責任感や夢を持ち、厳しい現実の社会で活躍していく若者がこんな状況の中から果たして育つでしょうか。上述の生徒たちは第一志望の大学に現役合格できたからまだ良いようなものの、その何倍もの生徒たちが自分の学力を伸ばすことなく高校生活を終えてしまっているのではと危惧されます。

 学力どころか、それ以前の規律、また教養以前の常識すらあやしい。平成11年度、神奈川県の校内暴力事件の数は全国で飛びぬけて高い第1位(5015件、2位大阪3036件、3位三重1908件、8位東京1386件、文部科学省発表)という数字を見れば、神奈川県内の生活指導の実態は悲惨な状況といえます。(皮肉なことに神奈川県職員の平均年収も全国1位です。)

 では国レベルでは?ということで目を向けると、文部科学省は「2002年以降、小中学校にゆとり教育を入れても高卒時の学力は現在より低下することはない、なぜなら3割削減した小中学校の学習内容なら落ちこぼれることなく全員が理解しているために、高校生になってもやる気が旺盛であるし、さらに大学入試科目を増やし、高校でその分を補うからだ」と主張しています。
 こんな詭弁を信じる人がどれだけいるでしょうか?現実の公立高校は上で述べたような体たらくであり、実際にそれをするよう求められている高校教師に対するアンケートでも、総合学習に賛成しているのは何と僅か7%(「大学ランキング02年版」朝日新聞社)しかいないのです。これは衝撃的な数字といっても良いでしょう。できないに決まっていると私も思っていますが、現場のほとんどの教師もそれを知っているのです。

 もちろん公立高校だけの問題ではありません。私立校でも多くの問題が起こっていますし、東京都や高知県など遅まきながら重い腰を上げ、公立高校の改革を打ち出しているところもあります。また懸命に取り組んでいる先生方も多いことも承知の上で、それでも今機能不全に陥っている、そして放っておけばますますそうなってしまうであろう公立高校のシステムに疑問を投げかけたいと思います。教育の結果はすべて生徒の未来に降りかかるのです。
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『進路指導 〜偏差値の存在意義〜』 伊藤義巳2001/12

 「本番で440点取れば大丈夫だ!」 「6割5分出来れば平気だぞ」 「自分が一番行きたい高校だろ?最後まであきらめず、がんばれ」 「心配するな、受かるよ」大きな声が教室に響き渡ります。

 期末テストが終わり内申もほぼ確定し、生徒各々の志望校も決まるこれからの時期は教室が一番賑やかになる時期です。我々も冬期講習会、入試本番を控え受験指導に緊張も高まってきます。

 ところがです、志望校決定までの進路指導のあり方に混乱が生じているのです。それは1993年以降の業者テストの追放、及び学校における偏差値の廃止によるものです。そもそも廃止の大きな理由の一つが学力偏重主義と高校の序列化の廃止であり、同時に生徒および父兄の自己責任における自由な高校選びの推奨を目的としていたのです。当時の文部省による「現場の先生が単に偏差値に頼るのではなく汗を流して進路指導にあたるべし」という号令のもとにです。

 それまでの私立高校推薦基準は9〜12月までの毎月、都内の公立中学が一斉に行う業者模試の偏差値でした。現在その基準は各中学の内申点すなわち通知表の成績が取って代わったのです。推薦希望の生徒はともかく、公立高校および私立高を一般受験する生徒には困った事態です。高校受験案内には合格可能偏差値が各高校ごとに明示されているものの、生徒は自分の偏差値を知らず、高校を選ぶ目安も可能性も分からないのが現状です。

 では実際に学校でどのように進路指導が行われているのでしょうか。生徒も教師も合格可能性を示す偏差値を失い、それに代わる学力判断の材料さえ見つけることが出来ていません。本番の試験とは全く異なった形式の学校の定期テストだけが唯一頼りとなる数字なのです。しかし、これでは生徒個々の学力を判断することは不可能です。ある中学では個人的に受けた模試の結果を学校に持参させ、それをもとに指導を行なっている場合もあるようです。偏差値を廃止して以来、何も手立てがなく、生徒も教師も混乱したまま今日に至っているのです。つまり文部省のもくろみは、「汗を流す」どころか裏を返せば学校と教
師の責務の放棄に他ならないように思われます。

 私立高校も都立高校も各々特色があり、格差があるのは紛れもない事実ですし、高等教育が義務教育でない以上そうあるべきです。偏差値は志望校に合格するために、必要な学力の数値目標となる性格を持つものだったのです。また努力した結果として、客観的に自分の学力を知る上で存在しているのです。もちろん偏差値至上主義は論外ですが、生徒にとって自身の将来に関わる受験を前にし、よりどころとなる数値は欠かせないはずです。

 偏差値で輪切りにする指導など妄想に過ぎず、生徒は偏差値を前述のように捉えているのです。現実とはかけ離れた安直な愚策はマイナス面がはるかに大きく、その害を被っているのは紛れもなく生徒なのです。生徒に最善の選択とやる気、目標を与え得る偏差値のあり方を考え、見直し、中学の現場でも堂々と公に用いるべきです。


 来年度からの教育改革はゆとりと称した教科書内容の削減、全員が満点を取れる内容となれば今度は偏差値どころか通知表でさえ学力判断は困難となり、ますます現場と生徒に混乱を与えるでしょう。
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