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| 2002/ 1 『ゆとりよりも夢を!衣の袖からエリート教育の鎧(よろい)が見える』光岡誠司 2002/ 2 『特別対談:光岡誠司VS代々木ゼミナール英語講師・設楽雅司』 2002/ 3 『私立の入学金はなぜ返還されない?』 中田 卓 2002/ 4 『数学を教える立場から』鮓谷喜也 2002/ 5 『総合的な学習の時間』逢坂喜郎 2002/ 6 『公立高校改革を成功させよう』伊藤義巳 2002/ 7 『私立高校推薦入試に統一試験を』中田 卓 2002/ 8 『生徒諸君へ!読書のススメ』 逢坂喜郎 2002/ 9 『公教育:ゆとり以前の問題』光岡誠司 2002/10 『私立中学と公立中学の数学:その驚きの違い』鮓谷喜也 2002/11 『山梨大学の挑戦』伊藤義巳 2002/12 『年末特別企画 2002年教育関連10大ニュース』 |
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| ゆとりよりも夢を!衣の袖からエリート教育の鎧(よろい)が見える』 光岡誠司2002/1 2002年は日本の教育政策において、間違いなく歴史的大転換の年になるはずですが、依然先行き不透明なまま、いよいよゆとり教育元年を迎えます。 実は今回の指導要領改定において見落としてはならない点は、この制度が"ゆとり""生きる力"などの情緒的な言葉とは全く反対の、"エリート教育に対する国の資源の集中"を意図しているということです。 大幅に指導内容を易しくするだけでなく、通知表を相対評価から絶対評価へ変更する(1や2をつける必要がなくなる)のですから、いわゆる落ちこぼれはどこからも見えなくなります。親はもちろん本人さえ気付かないでしょう。 そうしておいてから文部科学省は、昨今の学力低下批判を見事に逆手にとった形で、各都道府県のいくつかの公立小中学校を対象にした「学力向上フロンティア構想」を、高校には「スーパーサイエンスハイスクール」などという構想を発表しました。 様々なコーティングを施していますが、要するにこれらは紛れも無く"公費によって運営されるエリート養成校"なのです。国がエリートの育成を目指すこと自体は当然ですが、問題はそれ以外の圧倒的大多数の教育サービスを大幅に減らすことです。予算が足りないからといって公立一般校における30人学級すら拒否しておきながら、エリ−トには集中的に税金を投入するというとんでもない公教育が始まってしまうのです。 今後公立高校の先生方は、3割削減した内容しか身につけていない新入生を、完全週休二日制の中でいったいどのように科目の増える大学入試(2004年)に対応させようというのか?このままでは通常の義務教育だけを受けた者は私立生と同じ土俵に上ることすらできません。私立校では御三家といわれる麻布、開成、武蔵をはじめ、多くの学校で今回の改訂にともなった週休二日の導入を拒否していますが、本来なら逆に公立の先生方こそ、普通の生徒のために、自らの週休二日を固辞し、敢然と新指導要領反対の声を上げていただきたいのです。 同時に、なぜ国公立大学が入試科目を増やすかといえば、特別な教育を受けたエリートだけが入学してくれれば良いということであり、また、大学の上位30校に重点的に予算配分するというトップ30政策もまさにその延長線上にあるという教育改革の全体像が見えてきます。より良いものに資源集中するためには犠牲者も出る、これではまるで企業におけるリストラと同じ構図です。 世界中で自国民全体の学習レベルを下げるような改革をしているのは日本だけですが、少数のエリートが国を引っ張り、他の者はゆとりの生涯教育などという理想郷のような社会構造がはたして可能でしょうか?現状でさえ高卒の多くの若者は就職できず、スタートから社会参加の権利を奪われてしまっています。しかも国の天文学的な借金のため、今後、教育だけでなく年金、医療などのサービスもますます低下の一途をたどることは確実です。 知識の偏在が貧富の格差につながり、更には社会階層の固定化へという歴史的流れは洋の東西を問いません。矜持を失った個人、ダイナミズムを失った社会が持つ自殺者の増加、治安の悪化という現象が既に身の回りで起きています。 今こそ、すべての生徒に対して質の高い教育が求められていますが、残念なことに、かつて世界一優秀で勉強好きだった日本の子供は、いつの間にか先進国の中では学習時間が最も少なくなってしまいました。新指導要領の実施がそれに追い討ちをかけます。中学3年生の理数を例にとれば、授業数は概ねイギリスの6割、アメリカの半分、オーストリアの4割しかなくなり、学校は年間165日も休みになるのですから。 皮肉なことに"ゆとり教育"によって、エリートに向けた受験競争は逆に激化し大学のランク付けはより明確になるでしょう。それに参加しない者に対しては十分な教育が保障されず休みばかりが増え、自ら学ぶ以外ないのです。 大学を出れば生活が保証されるというわかりやすい時代はとっくに終わっており、ただでさえ社会全体が勉強の動機付けを見つけにくくなってしまっています。そこにこのエリート教育が持ち込まれれば更なる混乱は必至です。 学校でますます勉強しなくなってしまう子供たちを学習へといざなうためには、大人自身が学ぶ姿を見せるしかありません。今の時代のつけを子供の将来にまわすことをやめ、ともに学び努力する者として、世代間の信頼関係を築き、価値観を共有することが不可欠です。今の子供が自ら学ぶために必要なものは、曖昧で情動的なゆとりなどではなく、学習の中から生まれるもっと具体的な個々の生きがいであり、夢であると信じます。 ▲ページTOPへ 『新春特別対談:光岡誠司VS代々木ゼミナール英語講師・設楽雅司2002/1〜対談』 何と!当塾代表の光岡誠司と、代ゼミで長年にわたり人気実力ともトップを張る設楽雅司先生が、教育問題について対談を繰り広げることになりました。 ご存知の通り、設楽先生は代々木ゼミナールで、長年第一線で英語を教えていらっしゃる超一流の講師であり、予備校内アンケートでも常にトップ10圏内という受験界屈指の大物です。 両者がっぷり四つ、本音で熱く語りました。読み応えのある対談で、2002年、第一回メールマガジンの目玉とも言える企画です。是非ご堪能あれ! 光岡「どうぞ今日は宜しくお願いします」 設楽「こちらこそお願いします。なんだか緊張しますね、少し」 光岡「またまた(笑)。今日は教育についてじっくりお話しましょう」 設楽「分かりました。思う存分やらせていただきます」 ◎崩れゆく公教育◎ 光「最近教育問題が頻繁に取り上げられるようになってきているのですが、中でもこれほど学校の荒廃が叫ばれるようになった根本は何でしょうか?」 設「この事をあまり指摘する人はいないんですけど、昭和40年前後ですか、教師の評価査定を現場の校長と教頭が出来るという、教育勤務評定法なる法律を作ろうとした時があったんです。でもそれをしたら教師がサラリーマン化してしまい、校長にゴマをする先生ばっかりになってしまって本気で生徒に接しようとする教師が育ちません。それに危惧を抱いた我々は、まあ、安保闘争の真っ只中にいたわけですから、断固として反対したんですね。5年間反対闘争をしました」 光「そうでしたか」 設「えぇ、それで、その法律自体は通らなかったんですが、国家公務員法、地方公務員法の条項の一つとして、効果査定を現場の長が出来る様に改定し、それが通っちゃったんですよ。実はそれが大きなつまずきの始まりだと私は思うんです。それによって、先生が下(生徒)ではなく、上(教頭、校長)ばっかり見るようになった」 光「なるほど。そしてそのトップである校長までも上を向くようになってしま ったと」 設「そうです。校長は退官すれば、指導師事になりたいし、教育委員会にも入りたいし、そういう出世コースみたいなことを中心に考えるようになっちゃった。教師は教師で校長にウケが悪ければ、教頭試験、校長試験に受からないみたいに考えて、結局肝心の生徒に目が向かなくなったんですね」 光「まぁ校長先生方も教育委員会に評価される側になってしまうと、そちらが気になってしまうのは仕方ないことで、個人の資質もありますが、制度自体がいよいよ現実に合わなくなってしまったような気がしますが」 設「昔の査定は、経験とか、クラス担任を何年持ったかなどですから。そりゃ、生徒に対して濃密な関係が築けますよ。そして何より基本的に勉強は自分でやるもんだという認識が教師にも生徒にもあった」 光「私は今の時代そもそも教育の専門家という考え方自体を疑った方がいいと思います。英語や物理など特定の科目の専門家、医学あるいは電気工事でもコックさんでも、たいていどんな大人もある種の専門家といえますが、教育の専門家というのはちょっと」 設「といいますと?」 光「つまり一人の生徒にとってはその親こそが教育の専門家であって、方程式のように答えがあるから別の専門家に任せておけば良いということはできないと思うんです。最近"ゆとり"のおかげで教育論が盛んですが、興味深い提言をしているのはすべて別の顔を持った人々なんです。和田秀樹氏は精神科医だし櫻井よし子は評論家、村上龍は小説家、石原慎太郎は政治家その他にも榊原英資、利根川進、中村修二みんな文部科学省の言っていることよりずっと魅力的です。まぁ乱暴なものも多少含まれますが・・(笑)みんな他の分野の専門家です」 設「確かに、曖昧なことばかり言ってころころ変わる文部科学省の寺脇氏よりずっと筋が通っていますね」 光「えぇ、昔の学校の先生方というのはその圧倒的な知識量と精神性で尊敬を集めていたように思うんです。今は親も高学歴になり、企業にお勤めの方は学校の先生よりもずっと幅広い経験をお持ちの方も多いと思うんです。そして子供から見ると、その方が現実味も迫力もあるように見えてしまう、同じ大人として比べちゃうと」 設「なるほど」 光「文部科学省の指導要領だけを金科玉条としているような先生やその授業はたちうちできませんよ。たとえ試験に出るという意味での勉強なんか知らなくても子供にとって有益な話ができる大人がいっぱい出てきたのではないかと」 設「代ゼミでも暴走族上がりの古文教師が今、何年もずっと国語科のナンバーワンです。本を書いたりテレビによく出ますからご存知の方も多いでしょうが」 光「ええ、吉野さん」 設「私は彼と個人的にうまが合うから授業を見に行ったり、時々飲みに行ったりするんですが彼の授業は実に参考になる。ずっと前から代ゼミにいる私から見ていても生徒をひきつける技は本当にすごいんです。マスコミでは単に"暴走族"の部分だけが強調して取り上げられますけれど」 光「限られた時間で生徒に"合格"という現実的な成果を与えなければならない訳だから、そんな部分だけで生き残れるほど塾や予備校のトップ講師の世界は甘くないですよね」 設「それはもう、経験を授業に生かせなければぜんぜん生徒は反応しませんよね。代ゼミは特にそうなんですが生き馬の目を抜くような厳しいシステムの中で私が今の位置をキープできているのもそういうものを貪欲に吸収しているからかもしれません」 光「それに比べて残念ながら公立の先生方には競争もない、結果的に個性に欠けてしまうのではないかと」 設「そうです。でもまぁだから光岡さんのところや我々予備校講師は仕事がある訳ですがね(笑)」 光「そういうことになりますか(笑)」 ◎『ゆとり』は幻想◎ 光「次に巷にはびこる"ゆとり"について話したいのですが」 設「はい」 光「"心の教育"とか"生きる力"というスローガンもそうなのですが、いったい"ゆとり"とは英語ではどう言うんですかね?まさかレジャー(leisure)というわけにもいかないし、playやaffordableどれも変ですよね」 設「ほんとそうなんですよ。実は昨年のある国公立大学の入試問題の英作文で出題されたんですが、代ゼミの外国人講師と検討しても"そんな概念はない" と言ってどうしてもいい英訳が出ないんですよ。出題者か文部科学省に模範解答を見せてもらいたいと思ってますよ」 光「やっぱり」 設「ところが先日ある高名な大学関係者と話をしている時に、uncrammed(つめこまない)だと言われましてね、、、」 光「(笑)また随分消極的ですね、辞書にも載ってないですよね」 設「(笑)そう、まったくです」 光「だいたいスローガンというのはわかりやすくなければ誤解を招くだけで、"生きる力"なんていうのも、例えば今アフガニスタンの人々にとってみれば、銃をうまく撃てるとか、食べ物を確保するのがうまいとかになってしまうんですかねぇ。それで日本人にとっての生きる力とは何のことかさっぱり説明がありませんから学校現場が混乱するのも当然だと思うんです」 設「そう、それでまず言いたいのが、特に公教育において顕著なのが競争というものを拒絶する傾向にあります。ゆがんだ平等主義のもとにですね。これはでも裏を返せば、個々のアイデンティティーを無くさせようとしていることなんです。競争すりゃいいんです。子供のころに負けて、失敗することで初めて何かの答が出て、自分というものがわかる事が多いんですから。価値観の多様な中での、ゆとりを使った教育は大変結構なことです。だけどその個々の価値観が存在しない上でのゆとり、心の教育はありえないし、妄想です」 光「確かに。現実社会が猛烈な競争社会であるのに、それを学校でさせなくなってしまうと、当然のことながらそれこそ"生き抜くためには"という発想も出てきませんね」 設「えぇ、日本は為政者が今まで、無色で画一的な人材を作ろうと努力していた。日本経済の、護送船団の要としてですね、高度経済成長を支えるために」 光「で、なまじっか本人たちも驚くほど大成功してしまったんですね、経済では」 設「そう、その時期はそれで良かったんです。でも、今、この日本全体が地盤沈下した時、つぶれた会社、経済の中で、無色な人間は何をすれば良いのか」 光「それこそ何も出来ずに立ち尽くしてしまう」 設「ええ、そんな画一的な人間を作り出してきた教育の中で、ゆとり、心の教育というのは無駄な時間ですよ。今の状態の中で、ゆとりで人間の心が豊かになるのは幻想だな!」 光「全くです。その上、そのいかがわしいゆとりによって学力低下にも拍車がかかってしまう」 設「いいこと無いですよ」 『特別対談パート2:光岡誠司VS代々木ゼミナール英語講師・設楽雅司』 ◎学力低下について◎ 光岡「このごろ学生の学力低下が叫ばれていますが、実感としていかがですか?夏目漱石の時代から学力低下は言われていたんだから尺度の問題だという人もいます(笑)。つまり我々は四書五経は暗誦していないけれど漱石はメールも携帯電話も知らないから同じだと(笑)。私は今さら論争するまでもなく、はっきりと低下していると思っていますが、しかも急速に」 設楽「いやぁほんとに落ちてます、間違いなく。ひどいもんです。この7,8年を比較しただけでも歴然としています。しかも我々のところに来る人間は少なくとも勉強しようという生徒ですよ。それを全体的に捕らえればぞっとするほどだと思いますよ」 光「この現象の最たる原因とは何なんですかね」 設「もちろん公教育における教科書、および教師の質の低下を言わざるを得ませんね」 光「そうですね。先生一人一人の質を言ったらきりがありませんが、とにかく入れ替えがないから公立校なんか教師の平均年齢が40歳を超えてしまって、変化する親や生徒の気質に対応できない。今ひとつ信頼関係が希薄な気がします。」 設「私も代ゼミで数年前、まったくこれまでと同じ授業をしているのに生徒からの評価が突然ガクンと下がったことがあって驚きました。何でだろうと悩みましたが、よく考えりゃ、自分は一つ一つ年をとりますが、教わる生徒は毎年18歳ですからね(笑)、毎年ギャップが広がっていることに気付きまして徹底的に研究してやり方を変えてみたらまたトップクラスに戻れたんですよ。同じように見えても子供は相当変化してますよ」 光「確かにおっしゃる通りです。それと教科書についても、今度の指導要領改定で出される教科書がこの4月には生徒たちに渡るんですが、イラストや吹きだしばっかり、はっきり言って普通の感覚ではアカデミックな匂いなんか全く無くって、あれじゃ絵本ですよ。どこかの評論家も言っていましたよ、小学生をバカにするなと」 設「教科書を易しくして、授業時間が減れば学力が落ちるのはどこの誰が考えたって当たり前で、私はこれまでただでさえ国語力の低下が一番の原因だと思って来たんですよ。文化は言葉ありき、と私は考えていますから。私の時代との決定的な違いは読書量なんです。私が子供の頃は、それこそ本を読めと徹底的に教えられましたよ。それによって語彙が増え、感性が磨かれていったんです。でも今の子は本当に本を読みませんね」 光「いろんな調査を見ると活字離れは今だに増えつづけていますよね」 設「そう。今の子はテレビはもちろんゲーム、パソコンなど、読書以外ででも心の刺激を得られるようになっていて、それはそれでいいとしても、でもその、ゲームなりパソコンなりの内容の言語や感性が素晴らしいとはとても思えないんです。むしろ陳腐ですよ。そこに問題があると思いますね。だから本当に良い本をたくさん読んで欲しい」 光「その通りですね。私が高校生の時、何かの折に趣味は読書と言ったら、担任の先生に"趣味というものは普通、あまり人がやらないことをいうんだ。読書というのは人の当たり前の活動だから趣味というには当たらない"と言われたのをいまだに覚えています。なるほどと思いました」 設「本当ですよ。我々の時代は、古文、漢文が外国語のように感じていたのですが、今の子は本を読まないから現代語が外国語になっちゃって(笑)」 光「(笑)じゃあ最後に設楽先生、何か生徒におすすめの一冊をお願いします。読みやすいもので」 設「そうですねぇ。読みやすいということになるとドラマにもなっている"最後の家族"村上龍ですね。家族というものに深く切り込んでいる。光岡さんは?」 光「えーとじゃあ私は記憶喪失と自立を扱った坪倉優介の"僕らはみんな生きている"をあげます」 おすすめの書籍を挙げて頂いた所で今号はひとまずブレイク。まだまだ熱い対談は続きます。次号の第三弾をお楽しみに。 『特別対談パート3:光岡誠司VS代々木ゼミナール英語講師・設楽雅司 』 ◎受験生へ・脳へ負荷をかけろ!◎ 光岡「英語の勉強方法ですが、いろいろあるんですが、どの生徒も苦労している単語の暗記、これはいかがですか?」 設楽「そうですね、まあ、日ごろ全員の生徒に対して言うのですが、人間、記憶力に差は無いと。覚えられない生徒に限って自分の記憶力は良くないって言うんですよね」 光岡「えぇ」 設楽「でも嘘です。逃げてるだけなんですよ。ですから私はね、言うんです。受験までに何千語か覚えなきゃならない単語がある。するとそこから逆算するとひと月にこれだけ、一週にこれだけ、一日にこれだけ覚えなきゃならない。一日にすると少なく感じて覚えることは誰でも出来るんです。このように具体的なノルマ、目標を立てない限り絶対無理です」 光岡「確かにそうですね」 設楽「そうして継続的に脳に負荷をかけることで、不思議と脳って柔らかくなるんです。最初は4、5個を覚えるのさえ苦痛で、しばらくそれが続くんですが、あきらめなければ、やがてある時からその苦痛がなくなって、スポンジのように単語を吸収出来るようになるんですよ。ちょうどマラソンランナーが、最初きつくても途中から苦しみが無くなっていくような、ランナーズハイのような状態が来るんです。私はそれをもじってラーナーズ(learner's)ハイといっているんですけどね(笑)」 光岡 「なるほど(笑)。暗記の苦手な生徒はその一番苦しいところでやめてしまう、本当はもうちょっとなのに。それで何も定着せずに知識がゼロになっちゃってまたもう一度スタートして、苦しいところでまたやめちゃうんです。結局、何度も同じ苦痛を味わうんですよね。自分で自分をいじめてるようなもんですよ(笑)」 設楽「ホント、ホントその通り!」 光岡「私は新たに入塾した、今まで一日4個や5個しか単語を覚えていなかった生徒に、いきなり"今から50個覚えよう"と言うんです。生徒はびっくりしますよ。やったことがないから、はなからできるわけないと思っていますが、最初だけ一緒に付き合って背中を押してやらなければならないんですが、生徒はすぐにできるんですよ。もちろんある程度のコツというか、工夫は教えなければならないんですがね」 設楽 「まず一気にどれだけ頭に入るか教えるわけですね」 光岡 「そうです。仮に半分忘れたっていいんです。しっかり覚えたつもりの10個だって使わなければすぐに忘れるんだから。それよりも実際に一日で40、50覚えられたことが生徒にはすごい自信になってそれこそ一気に勉強のペースが上がっていきますよ。そうなればしめたもの、何も言わなくても他の科目へ応用してくれますよね」 設楽「なるほどねぇ、個別ならではの良い方法ですね。その位の脳への負荷は絶対必要ですよ」 『特別対談パート4:光岡誠司VS代々木ゼミナール英語講師・設楽雅司 』 ◎生徒の努力を引き出し、教師を超えさせる◎ 光岡「それでは教育に携わる人間として、話がやや大きくなりますが、何を一番大切にしておられますか?」 設楽「そうですねぇ、教える人間のやりがいというのは、生徒が一生懸命頑張ってその結果が出る、それを手助けすることだと考えています。生徒が目的を持って塾なり予備校なりに来た。その意を汲んで教師も頑張る。ハードなタスクをかけるわけですから、それは生徒にとっても辛く苦しいでしょう。でもそれを乗り越え、結果が出た時、その喜びは何物にも変えがたいはずです」 光岡 「教育は何も勉強じゃなくてもできる、という本質論はそこにありますね。スポーツや芸を学ぶことを通してでも、人間形成をする過程で、あることに対する目的とか計画、実行、努力、挫折や成功、自信からやがて自立という要素がそこに含まれるわけですね」 設楽「おっしゃる通りです。通知表が一つ上がった。偏差値が2上がった。それはそれでいいことなんですが、その生徒の人生にとって、若い時代に、頑張って努力すれば結果になるんだ!という意識を持ってもらうことのほうが、実は通知表の点数なんかよりも何倍も重要なことだと思いますよ」 光岡「教える人は自分より優れた人物を生み出すことに集中すればいいと思うんです。青は藍より出でて藍より青しと言うように…。自分を超えさせるためには、まず自分の持っているものをすべて効率よく伝える技術が何より必要です。また超えさせたあとは自分で考えさせるということも習慣付けておかなければならない訳です。教育者としては」 設楽「確かにその通りです。いつの日か子供というのは自立して自分で食っていかなきゃならんわけだから。自分だけじゃなく家族を養わなきゃならん人間も必要ですしね、、」 光岡「それこそ大組織や国を引っ張っていく人材も必要で…」 設楽「そうです。だからこそ学問を通じて我々が子供に伝えなければならないことは、とても大きいんです。勉強の動機付けが難しい時代ですが、逆にそれが、教育、学問の本質を考える機会になれば良いと思います。子供があらゆる面で自分以上に成長することはどの親も必ず望んでいるはずですし、教師はそれを全力で実行する」 光岡「そうですね。教師も親も子供が自分を超えたら、あとは子供が一人で前進できるように導く必要がある。単に"詰め込みではだめだ"という意見の人たちはその辺りのことをもっと主張すべきですよね。高橋尚子がいつまでも小出監督より足が遅いままだったらシャレにもならないじゃないかと(笑)。」 設楽「(笑)トルシエの方が中田より上手い、とか?(笑)」 光岡「そうです、そうです。とってもまずい事態ですよねぇ(笑)。もう20年ほど前、アメリカ史上初めて、子の世代が親の世代を知識面で超えられなくなると警告し、教育改革を猛烈に始めましたよね」 設楽「日本も今のままでは必ずそうなりますよ。知識でも、経済面でも親を抜けない世代が出てきてしまう」 光岡「そうなんです。それを避けるには、子供が自分で知識を身に付けるしかないんですから、そう仕向けることが教育の本質だと思うんです。詰め込みはダメで"ゆとり"なんて言い出すから訳がわからず、本質的な議論に到達しないんですよ」 設楽「なるほど、そうですね」 『特別対談パート5:光岡誠司VS代々木ゼミナール英語講師・設楽雅司 』 ◎今後の人材について◎ 光岡「これからの日本、ポスト産業化社会で求められる人材というか理想的な人物像を考えてゆきたいんです」 設楽「はい」 光岡「今ですね、きっと親御さんも迷っているはずです。どんな子にしたら良いのかということで。不況とはいっても日本は豊かな国ですから勉強の動機付けが難しいんですね。つまり勉強しなくても食っていけるし、フリーターでも恥ずかしくもない時代です。逆に勉強できて、一流大学出ても就職できない学生もいっぱいいる。となると、親も勉強ばかりさせるのもどうかと考え出すのではないでしょうか。権威的なものがことごとく地に落ちていますから」 設楽「そうですね。大学だけでなく、政治家も警察も、さらに言うと大人全体ですか」 光岡「えぇ。それで親自身も、自分は大学出たけれど、果たして今の世の中でいい思いができているのかどうかとか。その辺りに疑問を持った世代の子供たちが今の生徒たちで、彼らは勉強する事が本当に大切かどうか認識していないし、仮にしていても明確な目標がない生徒が非常に多い気がします」 設楽「まさしくそうですね、技術や手に職をつけたり、学歴というものが確かに重要だった。それだけで通用した時代もあったんです。でもそれだけではぶち破れない壁が現在出てきたのはまぎれも無い事実です」 光岡「金持ちになりたいっていうのは良いんですが、リーダーの理想像のようなものがなくなっているというか」 設楽「私は、他人が何を考えているか、どんな気持ちでいるかを正確に想像できる人間が、これから凄く大事だと思います。相手の後ろ側に回って、背中に回って見れる人間が絶対これから天下を取ると思っている。そういうのって、今までの発想の図式から言えば、文系なんですけど、でもできれば、技術能力など理系的なものを持っていて、そういう感性を持っているほうが必ずのし上がるし。そういう人すごい少ないです。やっぱり日本がこの30年40年、エンジニアとかテクノクラートが社会を回すように生きてきたから」 光岡「ソニーの社長とかホンダとか?」 設楽「そうです。いい経営者たちとは思うけど、日本の社会を支える上で、ホンダとかソニーが儲かって認定されたからであって…」 光岡「ほう」 設楽「私はそんなに発展しないで良いし、護送船団方式でみんなが豊かにならなくていいから、もっと貧しかったり、日本が上手くいかなかったりしたときの方が、何か人の気持ちを感じられる人が育ったんじゃないかと思うんです。この10年20年若い子を見ていると、人の事を考える気持ちが希薄で、自分は自分という考えばっかり。これではダメなんです。私は、自分の思想や考えと他人は違うんだな、と思える人が上にいくと考えます。そのように考えられる人間が知識を身につけていれば、様々な考えをコネクトし、大きなものを作れるんです。技術と思想の融合的な考えが本当に大切なんです」 光岡「なるほど。社会構造全体が経済発展だけに重きを置きすぎたために、知識の価値、人材の理想像が徐々にゆがめられたということでしょうか。その設楽先生がおっしゃった考えでも、知識が無ければやはり意味をなさないと?」 設楽「そりゃあそうです。相手の考えを知るということは、やはり人間的な素養、プラス知識がないとできないことなのですから」 光岡「現在の日本の危機は目に見える不況なんかではなく、潜行する学力低下であると和田秀樹氏が述べています。もちろん芸術、スポーツまたは他の特殊技術で生活していける人はよいとしても、やはりそれは一握りですから今後、活躍していく人材はますます高度な知識が必要になるということですね」 設楽「それは絶対間違いないと思います」 ▲ページTOPへ 『私立の入学金はなぜ返還されない?』 中田 卓2002/3 中学、高校であれ大学であれ、私立校を併願受験すると、受験生およびその保護者は、必ずといってよいほど入学金納入期限の問題に悩まされます。もし納入期限の早い学校に合格して入学金を納め、その後それより志望順位の高い学校に合格してしまったら、その納めてしまった入学金は返還してほしいところですが、大部分はそれが不可能なのです。ならば他校の合否が発表されるまで納入を延期できたらよいのですが、やはりこれも大概認められておりません。 入学を辞退するにもかかわらず、入学金を返還してくれないというのはなんともおかしな話です。このおかしな「常識」がまかり通っているために何十万、場合によっては百万を超える大金を無駄にし、理不尽な思いをされている家庭も少なくありません。また合格したあと悩んだあげく、出費を節約するために納入せず、その後に受けた学校も合格できず、結果としていずれも逃してしまったという不幸な例も毎年耳にします。 学校側は「一旦納めた入学金は返還されない」という大前提を良いことに、模擬試験などよりはるかに高い受験料を徴収した上で、さらに入学しない受験生からも入学金を取るわけですが、どう考えてもこれは筋がとおりません。なんとしても改善する必要があります。この不合理な悪習によって、限られた資金のなかでやりくりしている受験生の家庭側は、本来不要なジレンマを強いられることになるのです。 この事実に対し文部科学省は見て見ぬ振りをしているのでしょうか。入学しない受験生から確保した入学金は学校の運営費のなかで少なからぬ額を占めていると考えられます。第三者的な立場で見ても矛盾しており、禁止すべき制度だと思われるのですが。 このようなばかげた慣習が廃止されれば家庭側の経済的負担も大幅に軽減されるだけでなく、受験生の将来を決めるべき選択肢もぐっと広がることは間違いありません。 ▲ページTOPへ 『数学を教える立場から』 鮓谷喜也2002/4 今春「ゆとり教育」が始まります。それにともなう学力低下の問題点は、これまで、専門家に限らず広く一般のご父兄からも指摘されてきました。結局、当局は予想以上の反対の声に、苦し紛れの言い訳に終始し、その対応策は戸惑う現場に任せっきりにしたまま見切り発進する事態となりました。中でもとりわけ算数、数学についての問題点が取り沙汰されていますが、実施が決まってしまった以上、その是非はさておき、ではどのように数学を勉強するのか、また、させるのかを記したいと思います。 数学を勉強する上で必要不可欠であるものは何よりも計算力です。ここで言う計算力とは小学校で学ぶ四則計算だけではなく、高校の数学、理系における自然科学、文系でも経済学、統計学などを学ぶ上で必要な計算力まで全て含まれます。また、解法手順を覚えることも計算力の一部です。 これらの計算力を養うために最も効果的な手法は、"計算は手に覚えさせる"と言うように、"反復練習"です。そして当然のことながら、時間をかけずして充分な問題量をこなすことはできませんので、かなりの家庭学習が必要になってきます。学校で授業時間が減らされてしまう今春以降はなおさらです。"詰め込みでなく考える力を育む"ことは重要ですが、九九を持ち出すまでもなく、詰め込まなくてはいけないことがどのレベルにおいても、まず存在して いるのです。 数学が分からない、難しいという生徒のほとんどは途中から分からなくなるというよりも始めから手が出せないのです。それでも繰り返し計算練習させることにより計算問題は確実に点になるという自信が生まれ、この取っ掛かりの自信こそがとても大切なのです。なぜなら数学が楽しくなるというのはまさにこの"できる"という自信からしか生まれないものだからです。数学を教える者が、その生徒がたとえ将来、高度な数学を勉強しないとしても、このような手順を体験させてやることが何より重要だと考えます。 授業の中で生徒によく話す事があります。"君たちはどんな道具があって、それをどのように使うかを今勉強しているんだ。早くそれを覚えて何を作り上げるかを考えよう。"そして、その一番有用な道具がすなわち計算力であり、道具の存在や使い方を知らせず、それが身についているかどうか確認もせず「自由に創造しなさい」「いろいろ考えてみなさい」というのは教師たちの怠慢であり無責任ではないでしょうか? ▲ページTOPへ 『総合的な学習の時間』 逢坂喜郎2002/5 自ら学び自ら考えることのできる「生きる力」を育てるために、先月から小中学校で「総合的な学習」が始まりました。これまでの実践報告を読むと、環境・福祉・国際化など教科の枠を越えたテーマについて実体験を通して学習するものが目につきました。 もともと各教科の延長線上で体験学習をすること自体は目新しいものではありません。昔から「学校行事」が入念な準備の下にこの役割を担ってきました。例えば修学旅行で沖縄に行くとすれば、事前学習にかなりの時間をかけます。理科で珊瑚礁や海洋について、社会で沖縄の歴史や米軍基地について、また音楽で沖縄民謡について学習します。そしてこのような基本的な知育を行なった上で、修学旅行という「総合学習」があるのです。 ところが知育抜きの旅行にしてしまったらどうなるでしょうか。"沖縄は暑かった""先生や友達とおしゃべりできて楽しかった"ということだけになるのではと危惧するのです。実際「総合的な学習」の一貫として環境教育を河原で行ったところ、単なる川遊びの時間と化した、などという報告があります。「総合的な学習」のノウハウがまだ十分ではないためでもありますが、その子どもたちは環境学習をする上で十分な知識や興味を持っていたのでしょうか。 魚などの生態、天候、川などの自然条件、汚染の仕組み、河川管理の現状など、いくらでも取り上げるテーマはあります。それらを教え問題意識を持たせてはじめて「教育」という名に値すると思うのですが、そこまでやる時間的余裕がないのが現状です。 これら「総合的な学習」においては、問題の解決にあたって教科書に載っている「正答」がしばしば通用しません。自分の力で考えるのです。このことはとても魅力的に聞こえますが、環境であれ、国際化であれ基本知識なしには子どもは考える素材を持たず、問題解決どころか問題認識すら不可能です。知識なしの総合学習など絵に描いた餅以外の何物でもありません。 さらにやっかいなことに、教える側にも、どのように授業を組み立て、成果をあげるかについての「正答」がなく、すべてが先生個人の見識次第なのです。では、親や世間はそれをどう評価すればよいのでしょうか。それにも「正答」がありません。 これまでの教育が"知育偏重"であったと批判されることは多々ありました。なるほど"受験" 偏重は様々な問題を生みますが、知育をする場であることこそがそもそも学校の存在理由であるはずです。実体験は確かに重要ですが、いわば実体験の集積とも言える知識こそ学校という教育機関が次世代に伝えていかなければならないものです。 自ら学び考える力が必要であること自体を否定する人はいません。大切なのは生涯にわたってその能力を発達させるための土台作りを学校教育で行なうということです。言うまでもなくそれは基礎学力の定着を指します。学校の先生方には「総合的な学習」に振り回されることなく教科教育(知育)の充実を期し、体験的な要素は学校行事において実現して頂きたいと思います。 ▲ページTOPへ 『公立高校改革を成功させよう』 伊藤義巳2002/6 今年度から公立高校の改革が大きく進んでいます。都立では高校の統廃合だけにとどまらず、コース制、単位制、総合学科、チャレンジスクールなどの設置、さらに学力検査の自校作成、学区の廃止、進学重点校の指定など事例は数多くあります。 メルマガなどで公立高校の問題点をたびたび指摘してきた我々から見ますと、都が重い腰を上げ、試行錯誤の段階ながら、とにもかくにも大胆な改革が動き始めたことに一定の評価をしています。学校の個性化、多様化は大いに進んでいくべきなのです。しかし、残念なことに、教職員の間では、こうした改革は都立高校の序列化をおしすすめ、学力低下、いじめや暴力、不登校の問題に拍車がかかるという意見が根強くあります。 改革に反対をしている人々はいったいどこまで教育問題が持ち上がれば、考えを変えるのでしょうか。機会の平等と結果の平等は違うことに何故気が付かないのでしょう。そもそも高校は義務教育ではありません。勉強して大学に行きたい人、スポーツをやりたい人、手に職をつけたい人、それぞれの目的にかなった高校を志望し、合格のために努力し、そしてそこに競争が存在することは当然の原理です。 まだ中学生だからと言って受験というストレスから生徒を遠ざけ、この先、嫌でも経験する様々なストレスの体験学習を先送りするようなことで、教育の諸問題が解決するとはとても思えません。それは、生徒に受験する目的と意味を伝えストレスに向き合わせる教師のリスクや苦労を先送りしているだけ、と言えるのではないでしょうか。 誰であれ、できるなら熾烈な競争などしたくないでしょう。指導する側もその緊張の中に身を置いて神経をすり減らしたくなどないものです。だからといって学校を競争の見えないような"愚者の楽園"にしてしまうのは、とても教育とはいえません。それにみなが気付いたからこそ改革が動き始めたのです。 ところが残念ながら遠山文部科学大臣はいまだに、学力低下は起こっていない、誤解だと言っています。これまでの政策の過ちを認めることは容易ではないとしても、公立高校にとって歴史的大改革とも言える今年度のスタートに当局の強いリーダーシップ、またはバックアップが必要なのは明白です。問題認識が異なれば対処法が異なり、数年後どういう結果であっても悪ければ責任のなすりつけ、良ければ成果の横取りという混乱が目に見えています。 子供たちは議論の道具ではありません。実験台でもありません。次ではなく、今回の公立高校の改革をどうしても成功させなければならないのです。公立中学校の指導力や公立高校の存在意義が問われるはずです。地域社会、家庭、すべての教師そして当局が建設的な議論を重ね、社会を生き抜く力を持つ人材を育んでいけるような学校を作り上げるべきだと思います。 ▲ページTOPへ 『私立高校推薦入試に統一試験を』 中田 卓2002/7 東京都内の全私立高校が加盟している東京私立中学高等学校協会は、今年の秋から私立高校の推薦入試の選抜資料として統一試験(協会側は学力到達度診断テストと呼んでいる)を導入することを検討していました。しかし、東京都の教育委員会や中学校長会はこれに反発し、結局、6月26日私立高校側は、試験実施を来年に先送りすると発表せざるをえませんでした。このテストは、公立中学校の評価方法が今年度から絶対評価に移行したことに対応したもので、学力が大まかなランクで示されるだけのものだったのです。 絶対評価であれば、生徒全員の通知表に5を付けることも可能です。これまでの相対評価でさえ、学力以外の部分が加味されており、評価基準が不透明だという批判が多くありましたが、絶対評価となればいっそう、高校や父兄など外部からその評価基準を知ることは難しくなります。 結果として内申書に対する信憑性が揺らぎ、公平な学力評価ができなくなってしまうことを私立高校側は危惧してしまうわけです。私立高校のほとんどが内申書の点数を基準にして推薦入学者を受け入れてきた現実がありますから、その基準がそれぞれの中学の全く主観的なものに代わるとなれば、高校側の懸念は当然と言えるでしょう。 これに対し教育委員会は、統一試験は絶対評価の意義を否定しかねず、入試準備が早まり生徒や保護者を混乱させ、加えて行事や部活動を含め中学3年の学習に多大な影響を与えるものである、などとして実施に反対する姿勢を終始崩さない様子でした。 しかし、これこそまさに"天に唾する"行為としか申し上げようがありません。混乱させている原因をいったいどちらが作っているかは火を見るより明らかです。私立高校推薦を希望する生徒、父兄からすれば、テストで何点取っても通知表の成績は分からない。仮に通知表に5が並んでも志望する高校の推薦基準に達しているかどうかも分からない。そして何より全体の中での自分の学力そのものが把握できなくなってしまうのです。 事実、今年度の私立高校の説明会に足を運んでみますと、例年なら今ごろ発表されている推薦入学の基準が多くの学校ではいまだに発表されていません。絶対評価がいかなるものか分からないので、高校側が発表したくても"発表できない"と言った方が正確でしょう。 教育委員会や校長会がテスト導入に反対する理由は以下の2点でしょう。 1)中学校間の学力および内申評定格差が明るみに出てしまう。 2)推薦入試の主導権が中学から高校側に移ってしまう。 1)に関しては容易に想像できますので、2)についてお話します。 高校の推薦入試に際し、これまで主導権は中学校側が握っていました。生徒に対しては、内申書をちらつかせて指導をし、高校に対しては窓口として生徒を紹介し感謝される。ところが統一試験導入となると生徒と高校側がテストの学力評価の方を重視する可能性があり、内申書は神通力を失ってしまいます。そうなれば、内申書、生徒紹介に支えられていた中学の先生の権威も失墜してしまう、そういうことを中学側が恐れているとしか思えません。 各私立高校の教員は、毎年推薦枠を確保するために中学に出向き"営業活動"を展開していますが、今年、とある中学では「テストを実施するのならおたくの高校には生徒を送れない」とまで言われたそうです。 そもそも絶対評価の導入は、新学習指導要領における学習量3割削減と同様、「ゆとり教育」の一環をなしています。業者テストが平成5年に廃止され、"建前上"は偏差値がなくなって以来、高校入試は不透明さを増しています。そこで、今回の絶対評価導入を機に、ついに私立高校が結束して立ち上がり実施しようとした統一試験がこのようにあっけなくつぶされてしまったわけです。 統一試験は、行き過ぎたゆとり教育に歯止めをかけ、軌道修正を図る上でも非常に意義のあるものだと思います。生徒にとっても、自分の学力はひと昔前の人たちと比べても決して下がっていないのだ、ということを堂々とアピールできる絶好の機会だったと私は思うのです。 公立中学が同じく公立の高校に対して選抜方法を要望するならともかく、本来、自由に自校の入学候補者の個性、学力を判断する権利があるはずの私立高校に対して試験中止を叫ぶというのは、中学側の明らかな越権行為ではないでしょうか。 ▲ページTOPへ 『生徒諸君へ!読書のススメ』 逢坂喜郎2002/8 暑中お見舞い申し上げます。皆さんは、部活に勉強に励み、また旅行など楽しんでいることと思います。ところで、夏休み前に宿題が学校から出されたはずです。忘れたとは言わせませんよ(笑)。 その中に読書感想文はありませんでしたか。中には読書が嫌で嫌で、「本など見たくもない、まして感想文なんて」というような人もいるかもしれませんね。実は私もそうでした。特に夏休みは楽しいことがたくさんあり、何もわざわざ面倒な読書をする必要はないと考えていました。でもそれが間違っていることに気付いたのはだいぶ後になってからのことでした。 大人が皆さんに読書を勧めるのは、刺激的で面白い情報を提供したいからではありません。その主な目的は考える訓練にあります。多少大げさに言えば、人間は自分の知っている言葉を使ってしか考えられません。ですから、どれだけ言葉を知っているかによってその内容は豊かにもなれば、乏しくもなります。実際に、本をたくさん読んでいる人は多くの知識を身につけているだけでなく、考える訓練も積んでいて、表現する内容も豊かで、たとえ話なども上手ですよね。 確かに、刺激的で面白い情報を手に入れたいのなら本以外にも便利で手軽なものはたくさんあります。テレビや雑誌などのメディアがそうです。しかしそれらのメディアでは、感覚的、視覚的に情報を伝える傾向があります。したがって一瞬の印象が情報の受け取り方に大きく影響してしまい、もしそれだけに頼るようになると受動的で短絡的な思考回路が定着してしまいます。 一方、読書というのは、なるほど他人の書いたものを読まされているのですが、脳の活動としてはテレビなどよりずっと活発なものなのです。読者は表現を味わい、理解するために自分の頭で考え続けざるをえませんから。 ただでさえ暑いのに、街行く若者の言葉を耳にするとめまいがしてきます。「ウザい」「キモい」「ムカツく」「マジっすか?」など、自分の感情を表現する他の適切な言葉を知らず、多くの人が全く同じような言葉を使います。意地悪く言えば、彼らの言葉を聞くと、茶髪、ピアスで個性を出そうという努力虚しく、全員が感性の乏しい同じ人格に見えてしまいます。本や新聞を読まないために、自分の頭で考えるべき時に、その材料となる言葉や情報を持っていないのだなと。 ある調査によると、日本の15歳は世界の中で最も本を読まないそうです。一方、図書館が充実し、親や先生、つまり大人がよく本を読む環境であれば子供も本好きになるというデータもあります。ということは、本当は日本の大人、私たちこそ、本好きにならなければならないのかもしれませんね。 面白い本があれば、私たちもホームページの読書コーナーでどんどん紹介していきたいと思います。そこで興味のある本があれば図書館や本屋さんに足を運んでみてください。また、夏休みというまとめて時間の取れる時にこそ、たとえ先生達が薦める本でなくとも、自分でおもしろそうだと思えるものや長編、難しそうなものにチャレンジしてみてはどうでしょう。必ず新しい発見があると思いますよ。 ▲ページTOPへ 『公教育:ゆとり以前の問題』 光岡誠司2002/9 ある国立大学の教授が知り合いの高校教師に文句を言ったそうです。「最近うちの大学に来る新入生の学力は悲惨、授業にならんよ。高校でちゃんと勉強させといてもらわんとなぁ」 すると高校教師は「何をおっしゃる。君んとこの大学がそんな生徒でも入学させているんだろう」 このやりとりこそ現在の高等教育問題の縮図です。すなわち没個性大学VS無責任高校です。 ゆとり教育が議論される前から、学力低下問題をさまざまなデータをもとに世間に訴えかけてきたのは、常に大学側です。それに対し、公立高校、文部科学省側はその問題の存在すら認めず、学力観が変わったなどという反論を展開していました。 もう我慢の限界とばかり、国公立大学の大半は2004年の大学入試(現在の高校2年生受験)において受験科目を5科目から7科目へと増やすことを決定するのですが、そうなれば受験生にとってはかなりの負担増で、当然早めの対策が必要です。ところが生徒を抱える公立高校側では、学区のトップ校ですらそれに向けた具体的、積極的対策が取られていません。 6月号のメルマガで告発したとおり、東京都進学強化指定校の戸山高校でさえ、目を覆いたくなるような惨状です。それどころか、この夏休み、なんと都立高校での多数の教師の組織的なズル休みが大々的に報道される始末です。「学力低下」とはとりもなおさず「教育力低下」なのです。 これでは国公立大学のレベルアップの目論見がはずれることは自明です。高校側の協力無しでは、3科目以下で受験できる私立大学に対し、7科目の国公立大学受験は、生徒の負担の差があまりにも大きく、国公立は受験生から敬遠されると思われるからです。もともと国公立大学の入試は90年までは7科目でした。当時も受験科目数が多いことを嫌われ、受験生が集まらず、国立大学のレベル低下が叫ばれた結果、現在の5科目以下に削減した経緯があります。 大学単独で高いレベルの授業を維持しようとするならば、大胆な定員削減しか方策はないはずです。単に受験科目数を元の7科目に戻すだけというのはいかにも安易、しかもなぜ一斉に増やす必要があるのでしょうか。 そもそも、小、中、高校での授業時間を減らしておきながら、大学入試の科目を増やすなどということはどう考えても整合性のない改革です。個性の出せない国公立大学、責任を果たせない公立高校では、本当に学びたいと思う人材であっても勉強する気が失せてしまうというものです。 大学側は護送船団方式の入試制度いじりをやめ、高校側は自らの教育力低下を謙虚に認める、その上で両者が協力して人材を育てるという理念に基づいて教育改革に取り組まない限り、どのような改革も受験生やその父母を惑わすだけの結果に終わると断言できます。あらゆる段階において、公教育に携わる方々の問題認識の共有を切に望みます。 ▲ページTOPへ 『私立中学と公立中学の数学:その驚きの違い』 鮓谷喜也2002/10 公立小学校の算数において、円周率が3.14から3へ変更されたり台形の面積の公式が削除されたりするなど、算数・数学の易化が様々なところで議論の種となっているが、一方、私学ではどのように数学・算数の授業が行われているのであろうか? 私どもは個別指導塾ということもあり、色々な私学に通う生徒を担当する機会が多い。ここでは公立と私学進学校のカリキュラムの驚くべき違いを、数学を教えるという立場から中高一貫校、当教室中川校のある神奈川県の桐蔭学園中等教育学校を例に挙げながら、ここに記したい。 私立中学の数学はともかく進み方が速いという話は周知となっている。桐蔭学園では通常の中学部のほかに中等教育学校が設けられている。中等教育学校は文科省の"特例"が認められているため、現在問題となっている指導要綱に添う必要はなく6年間独自路線で理数系科目の指導を行うことが可能だ。 数学のカリキュラム、教科書を作成しているのは志賀浩二氏(桐蔭横浜大学教授・東京工業大学名誉教授)であり、公立の教科書の形である学年ごとに区切りをつけていく学年・単元単位の学習ではなく、コースという形で体系的な学習ができるように工夫されている。 そのため、公立中学校では3年生で学ぶ平方根などの計算を、桐蔭中等教育学校では計算手法の一つとして1年生から学んでいる。また、倍数、約数、あまりなどの整数問題を始めに重点的に学習している。これは中等教育学校だけでなく、かの鹿児島ラサールでも同様のカリキュラムになっており、上位進学校ではすでに定着しているといえる。 このカリキュラムで登場する問題は、小学校レベルの計算力で対応できるが実は創意工夫が重要で、問題解決能力を磨くにはうってつけの内容である。大学受験生ですら、機械的な学習に慣れてしまった生徒にとっては非常に難しく感じる分野であるが、数学という学問の始めに『数』というものについて考えられる能力が備われば、大きな力になるに違いない。しかも中学に入って間もなく大学の入試問題を解くところまで及ぶのである。数学に携わるものから見れば非常に高度で効果的なカリキュラムに思える。ただし、このカリキュラムがすべての生徒に対して有効な方法とは言えない事も事実である。やはり選抜された生徒でなければ難しいであろう。 それに対して大幅な削減を行った公教育の数学のカリキュラムは必要最低限を身につけさせるという点において良く練られてはいるが、発展的学習と呼ばれている内容すら、質量ともにお粗末と言わざるを得ない。また、同一分野を学年ごとに決められた分だけ、少しずつ狭く浅く勉強していくにすぎない。このような教科書の単元構成では細切れの数学を詰め込んでいるとも言えるのではないだろうか。『数』というものの全体像が見えず、考える力を育てるのに有効であるはずの数学が上手く生徒に染み込んでいくのは、逆に困難である。 以上のように両者には大きな隔たりがあるのだが、どちらが子供たちにとって良い数学の勉強なのかと言えば、結局万人に最適な勉強方法というものは無いのだから、子供たちの特質・諸事情を踏まえて選択していくしかない。今回の教育改革では詰め込みではなく考える力を育てるということに主眼が置かれているが、そのためには楽しく学ぶことはまず重要である。この楽しく学ぶということは決して易しいことを"楽に"学ぶことではなくて、難しいことを学び、それを理解することによって得られる満足感から、学問の"楽しさ"を実感できるという類のものであるはずだ。 子供の特質を考えず高度な数学を勉強させるのは文科省の言う詰め込み教育そのものとなってしまう危険性もあるし、また、公立中学のカリキュラムが効果的に働く生徒も数多くいるであろう。しかしそれ以上のものを望む生徒がいることも事実であり、それに応えられるオプションは公教育には準備されていない。 誰もが横一線で理解できる内容に削減され、さらに絶対評価という制度下では自ら進んで勉強しようという意識が生まれることは現実的には期待できない。ある意味勉強を軽視してしまうだけであろう。数学教育に関して言えば私学は大きく進んでいることは事実であり、公立に通っている生徒が同レベルの数学を勉強するには学校は期待できず学校外に頼 るしかない状況である事を理解して貰いたい。 ▲ページTOPへ 『山梨大学の挑戦』 伊藤義巳2002/11 このところ"改革"と称し、ほとんどすべての大学で様々な制度変更がなされています。しかしながらその本質は、少子化にともなう経営危機を乗り越え るため、学生集めを第一の目的とした生き残り策としか思えないものが多くあります。 ここ数年、成人式での若者の暴走ぶりが報じられていますが、大学のキャンパスでも事情は同様です。講義の最中に携帯電話の着信音がなる、飲食をする、私語が絶えない、平気で遅刻をするといった学生が多く目立ち、最高学府としての学びの場とは程遠い状況を実に多くの教授たちが嘆いています。 そんな中、山梨大学工学部が学部内の改革として約1年前、早期退学勧告制度を導入しました。この制度は"学業不振者に対して退学を勧告する"という非常に厳しいものです。学生への安易な迎合のような人気取り的制度変更が目立つ中、山梨大学の大胆さは際立っていました。 ただし、この制度の目的は単に邪魔者を追い出すというのではありません。退学しても1年以上社会に出てから、再び勉強を望む者に対しては何年後であっても無試験で再入学でき、在学中に取得した単位も認めるというのです。同時に学部定員を100名ほども減らして少数精鋭を標榜し、一方で大学院の社会人の受け入れ体制を準備する。つまり、学生が現役であれ社会人であれ、学習は本人の意志に基づき行われる、大学をそういう高等教育本来の場に戻そうという意図なのです。 実際に山梨大学がこの制度を施行してから、学内の書籍の売上、図書館の利用者、授業の出席率も向上し座席も前列から埋まっていくという状況だそうです。学生たちの評価も非常に肯定的だと聞きます。一方、教授側には、学生に退学を勧告できるだけの内容の濃い講義を行なうことと、学生の学力を上げるという責務が大きく問われることになるのです。学生側と教授側が、それぞれの目的と役割を認識し、緊張感の中で有益な講義が成立していく仕組みを作り上げたわけです。 更に社会人教育の推進も一つの大きな改革の中心です。工学部で学ぶ4年間の知識だけでは耐久年数が短く、到底現代の目まぐるしい技術革新には対応しきれないという現実があります。社会人となった後も常に最先端の知識と技術が必要になってきており、それに応じた環境作りも大学は考えています。社会人学生の受け入れ、産学共同の技術開発も盛んに行なわれているようです。 改革といえば何か目新しいことを制度に付け足すことを考えがちですが、山梨大学の場合は、逆に教育の原点に戻って制度を組み替えたといえそうです。当たり前のことを始めたに過ぎません。小・中・高校、さらには我々学習塾などの教育機関であれば、学ぶ場としての理想は本質的には同じであるはずです。教育現場に必要なものは山梨大学の改革の姿勢に示されていると考えます。 ▲ページTOPへ ◆年末特別企画◆2002年教育関連10大ニュース ◎教育界が大きく揺れた平成14年。当教室では、ご父母に教育界の主要な約30項目の出来事の中から関心の高いものを選んでいただき、集計しました。 第10位『公立校教員の進む高齢化』 小中高とも教員の平均年齢がついに40歳を越えてしまい、20歳代の教員は採用がなく、割合はわずか数%です。はたして、これで学校の活力が生まれるのかという指摘も多くなされました。 第9位『子どもの読書活動推進』 国語力の低下を懸念し、図書館などの充実をめざしたものです。毎朝の10分間読書を実施する学校も増えつつあります。小さなニュースでしたが、ご父母の関心が高く9位でした。 第8位『教員自宅研修制度の見直し』 研修と称し、夏休み中の勤務時間を自宅で過ごしたり、旅行に出かけたりしている教員の悪習にメスを入れました。東京都はその後都立高校で抜き打ち調査を実施し、依然として改善されていない実態を公表しました。 第7位『学力低下懸念を受け、全国学力調査の実施』 小中だけでなく、40年ぶりに高校でも実施。そもそもこの種の学力データが存在しなかったこと自体、当局の怠慢であるという指摘がなされました。 第6位『センター試験過去最高60万人受験』 18才人口は減少していますが、参加する私立大学が増え続けています。大学の個性化が叫ばれている中で全く逆行するものですが、受験生側は一度の受験で複数の大学に出願でき、私大側は学生、受験料収入が確保できるというメリットがあり、両者の利害が一致した現象です。 ●第5位●『AO入試、推薦入試の増加』 AOはAdmission Office(入学課)の略称。大学が独自の合格判定方法を用いて、よりじっくりと人物評価をするのが本来の制度導入の目的です。しかし実態は、学生確保のための青田刈りであるという声も上がっています。ある大学のAO入試では、選抜方法が推薦入試と全く同じで、いまだに受験生や関係者に混乱を招いています。また、高校の推薦入試では"その基準が不明確"などの指摘があります。 ●第4位●『入学辞退者への授業料返還訴訟』 当メルマガでも中田先生が指摘したように、本来、入学もしていない者から多額の授業料や入学金を徴収したまま返還しないという制度はどう見ても矛盾しています。その後、大阪の弁護団が訴訟を起こしました。 文部科学省も通達を出し学校側に改善を指導したのですが、これまでこの制度を放置してきた責任は、大学よりも見て見ぬ振りをしてきた行政側にあるのではないでしょうか。訴訟自体は規模の大きなものではありませんでしたが、報道などで注目を浴び、今アンケートにおいても関心が高いことが裏付けられました。今年度以降、この悪習が教育界から根絶されることを望みます。 ●第3位●『ゆとり教育実施』 当メルマガでも光岡、伊藤先生はじめ多くの先生がさまざまな角度から懸念を表明し続けました。特に学習指導要領の3割削減、総合学習の実施、完全週休2日制や絶対評価の導入はマスコミなどでも、大いに議論の的になりましたが、そこで展開されてきた議論は必ずしもかみ合っていたとは思えません。 現在、塾での学習時間を含めても、諸外国の中でもっとも学習時間が短い日本の若者の学力を心配する声が大きいようです。これに対し、文科省は「生きる力」「心の教育」など定義不能な言葉を弄しつつ、学習塾に対して協力を求めたり、指導要領は最低ラインと弁明したり、全く一貫性がなく、とうとう学校現場も混乱したまま、4月のスタートを迎えました。来年からは高校でも指導要領が改定されます。 ●第2位●『全国公立中学絶対評価導入』 ゆとり教育の目玉の一つでしたが、都道府県により対応がバラバラです。東京、神奈川では絶対評価が導入され、当教室のアンケートでは賛否ほぼ同数となっていました。現在のところ東京都が1学期の絶対評価の実態を調査、公表し、いくつかの学校を改善指導しました。 また、内申点に疑問を持つ私立高校が共通テストを実施しようと立ち上がりましたが、中学校長会にあっさりつぶされてしまいました。現在公立中学3年生は志望校合格に向けて受験勉強をしている最中ですが、共通テストもなく、定期テストで内申点を取る目安もない状態で、今年は学校も塾も進路指導は全くの手探りです。早急に何らかの対策が必要です。 ●第1位●『指導力不足教員の研修』 学級崩壊に対応できない、または素行の悪い教員に対して研修をする制度です。当メルマガでは光岡先生が「学級崩壊の前に職員室が崩壊している」「学力低下は指導力の低下」であるという主張を展開しました。この問題がアンケートの第1位になることから、"教師の質"というものに対する、父兄らの厳しい判断がうかがえます。 ★総評★ 当教室代表 光岡誠司 学力低下、ゆとり教育問題は経済、治安など先行き不安が世間を覆っている状況の中で出てきました。このことが一層人々の不安をかきたてました。日本の最後の砦である将来の人材までも…という不安です。 テレビは特番を組み、新聞は連日、教育問題を取り上げました。これにより、ゆとり問題に限らずさまざまな教育関連のニュースが注目を浴び、人々の関心に火がついたことは、国全体が教育問題の重要性を再認識するという点では非常に効果的でした。 ここで出された10項目は私の予想以上に多岐にわたった内容です。ランク外でも、不登校、歴史教科書、教育基本法改正といった大きな問題が未解決です。"ゆとり教育元年"である2002年は歴史的教育大論争の年であったといっても決して大げさではないでしょう。 教育の成否は何年もあとにならなければ分からないのだから、総括するのは時期尚早だという意見も根強くありますが、今の生徒やその親にとって"失敗"という結果が出てしまってからでは手遅れです。実際に、今春始めたばかりの週5日制を、早くも来年度からを6日制に戻す私立校が既にいくつも出てきました。まだまだ活発な討論が継続されなければ なりません。せっかく高まった教育に対する国民的関心がここで途切れることなく、さらに有益な議論が進められることを願ってやみません。 ▲ページTOPへ <close> |
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