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| 目次 | ||
| 2004/ 1 『理想なき競争』門田勝博 2004/ 2 『評価されるせんせいたち』逢坂喜郎 2004/ 3 『中高一貫校への期待』伊藤義巳 2004/ 4 『チャータースクールで教育はこうなる!』逢坂喜郎 2004/ 5 『公の意識』 光岡誠司 2004/ 6 『日本の理想郷はあるのか』 佐藤竜二 2004/ 7 『やる気を引き出すプラス思考』 福原 洋 2004/ 8 『少年犯罪と情報教育』田上直樹 2004/ 9 『ジェンダーフリーからの解放』逢坂喜郎 2004/10 『教育理念と理論のあと付け性』徳永康之 2004/11 『教員免許更新制』伊藤義巳 2004/12 『2004年教育界10大ニュース』 |
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| 理想なき競争』 門田勝博2004/1 ここ数年、教育分野における構造改革は疾風迅雷と申し上げれば良いのか、学校設立の条件が非常に厳しかった状態から、今や教育特区などにより、株式会社による学校設置までもあっという間に可能になりました。 2006年春に開校予定の、トヨタなど3社が計画している中高一貫校は、英国の主に貴族・上流階級の子息が進学する名門私立校イートン校をモデルにしています。全寮制で学業はもちろん、道徳的な部分でも若い段階での人材教育というものです。階級意識の残るイギリスで模範的なエリート校となるものを日本で作ろうという壮大な試みです。 また、岡山県御津町では、廃校になった校舎を利用して、公立校の約1・43倍の授業時間を使い、指導要領に縛られず、英語で美術などの授業をし、討論を学ぶ「ディスカッション科」なども進めていくようです。過疎に悩む地域の活性化にも一役買うような株式会社の進学校も認められました。 他にも注目を集める新しい形の学校はたくさんあります。一方公立校を取り巻く環境変化も、これまでのメルマガでもご紹介したように、恐るべきスピードで競争原理の導入が進んでいます。個々の学校が前向きに改革に取り組むこと自体は、すばらしいのですが、これらの動きに対して政府からは何の予算も与えられていません。 これほどの大改革が必要ならば、すなわち、それほど現在の教育に問題があるのなら、目新しい学校を認可するだけではなく、まずはその膿を出すべく、これまでの教育の担い手である教師、または文部科学省自体の問題をきちんと取り上げてもらいたいと思います。これまでの責任は問わず、改革には金も出さず、自ら血も流さず、口出しをやめるだけという改革なら文部科学省の存在意義を問われるのも当然だと思うのです。 一体、改革のあとの全体像はどのようなものなのでしょうか。今の勢いで、公立を含むすべての学校を競争原理に任せておけば、自然に淘汰が進み、良いものだけが残るというのでは無責任です。一般企業の競争原理というものは、負ければ社員は職を失い、経営者は個人の財産まで失いかねないというものですが、それと同じ覚悟が教員の方々にあるとは思えません。 とりわけ、失敗した時に困るのは、校長や教員ではなく、そこに通う生徒たちであるということを忘れないで頂きたいと思います。すでに昨年、今年の受験生たちは、中途半端な改革のせいで、これまでの資料がまったくあてにならず、志望校選定に見ていられないほど苦しんでいます。 『ゆとり教育』の総括もないまま、すべての学校がいっせいによく分からない競争に駆り立てられているように見えます。指導要領の歯止め規定をはずすなどという小手先の手段を反省し、ここでもう一度指導要領というものの意義、21世紀の求められる人材像、理想的な学校というものを議論する必要性を強く感じます。2004年がそのスタートになってくれることを希望いたします。 ▲ページTOPへ 『評価されるせんせいたち』 逢坂喜郎2004/2 ここ数年、教員に対する世間の見る目は厳しさを増しています。日々真剣に教壇に立っていらっしゃる先生方には不本意かもしれませんが、教員の資質向上は子どもを預ける親の立場にたてば当然のことだと思います。昨年も高校の数学の先生が分限処分となりました。高校入試の数学の問題が半分も解けなかったというのですから、問題はかなり深刻と言わざるを得ません。 そんな中、注目すべき新制度が来年度より東京都で一斉に導入されます。指導の根幹に関わる授業の、高校生による評価制度です。207ある都立高校のすべての先生が、生徒によって評価されることになるのです。説明の分かりやすさ・問題演習の有効性・声の大きさ・チョークの使い方に至るまで数値化され、3〜5段階の「通信簿」がそれぞれの先生に付けられることになるのです。 もちろん、立場の違いがありますから、生徒による評価を即、待遇面・人事面に直結させることは乱暴であるように思われます。極端な話、厳しい指導をしている熱心な先生が生徒から低い評価を受けることも十分に考えられます。また、生徒におもねる教師が出てくることを危惧する声もあります。 しかし、これだけ世の中が変わり、学校教育に対する世間の目も厳しくなっているのに、毎年同じノートをただ板書する先生もいることも確かなのです。ある調査によれば、学校の仕事の中でもっとも手を抜いている分野が教材研究だそうです。結局のところ、睡眠時間を削って良い授業をするための努力をしても、そうでなくても、日々の教育活動には支障がないという「先生」の認識、このような緊張感の欠如が教員の資質問題の根幹にあるのです。 「本校に合わないことが分かれば退場願う先生も当然出てくる」 進学指導重点校に指定された日比谷高校の長沢直臣校長は授業評価導入によるシビアさを指摘します。同校は公募によって集められた進学指導に実績のある先生をそろえていますが、生徒の評価で実力不足が明らかになれば、校長の判断ですぐに戦力外通告を受けることを上の言葉は意味しているのです。 もちろん、数字による評価は万能ではありません。また生徒に授業の教育効果を即時に判断できるかどうかはわかりません。教わって何年かしてから意味をもつことも中にはあるのかもしれません。しかし、勤務時間中に飲酒をして懲戒免職になる「先生」がいる一方で、過労のため心身症を患ってしまう先生がいるというのは一体どういうことでしょうか。管理職からも生徒からも評価される先生方のプレッシャーは非常に大きなものがありますが、努力されている先生方には逆にチャンスと言えるでしょうし、評価をする側・される側の責任が明確になることで、学校という組織のあり方もより健全になるのではないでしょうか。 ▲ページTOPへ 『中高一貫校への期待』 伊藤義巳2004/3 中高一貫高は平成15年度現在、国立、公立、私立と合わせて、全国で118校に及び、来年度以降の設置予定数は62校となっています。東京都の場合は平成17年度以降、10校の設置を予定しています。その中でも平成17年度に先陣を切って開校する、『台東地区中高一貫6年制学校(仮称)』の説明会になんと3000人を越す保護者が参加し、関心の高さが窺えます。 なぜ、この学校はそれ程までに注目を集めるのでしょう。単に高校受験がなくなるからでしょうか?私はそれ以上に、この学校の特色ある教育理念に負うところが大きいように思われます。その教育方針とは『高い志をもち様々な場面や分野でリーダーとなり得る生徒を育てる』です。さらに『日本の伝統文化を理解し、世界の中の日本人としてのアイデンティティを育み、国際社会で活躍できる生徒を育てる』ことも特色として挙げられています。 先日発表された、台東地区中高一貫6年制学校の適正検査問題例を見ますと、その内容が実に工夫されており、受験生の思考力、判断力、表現力、分析力を 見ようという意図がわかります。到底、知識の詰め込みだけでは、手に負えないはずで、これに対応しようと思えば、小学校からの学習方法にもかなりの工夫が必要です。学力競争に拍車をかけるという声もありますが、こうした多面的学力を養うことが文科省の掲げる教育改革の目的であったはずです。 http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr040108/kensa1.pdf (適正問題例) http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr040108/kensa2.pdf 私はゆとり教育に対する保護者の不安を解消するためにも、今回の教育方針と理念には賛成の立場です。一方で中高一貫教育校の設置に異を唱える方々もいらっしゃいます。その理由として、公平であるべきはずの公教育にふさわしいのか、学校の自由選択制と合わせて、学校の序列化が進んでしまう、エリート教育への反発などが主に挙げられています。しかし、学校間そして学力の競争がない限り、教育力が高まっていくとは思えません。事前のアンケート調査では中高一貫校の設置についても賛意を示す意見が多く、説明会に参加した保護者の数から判断しても、その期待感が表れているのだと思います。 学力崩壊すら叫ばれている現状を危惧し、対策を講じようとすれば、先駆的な教育の実践と戦後教育の悪平等的慣習に風穴を開けることがぜひとも必要だと思うのです。確固たる教育理念を掲げ、気概を持って取り組む学校が数多く出現することを望んで止みません。中高一貫校がその先鞭を付け、教育こそが社会、そして国の将来を左右するのだという共通認識にいたるきっかけとなることを期待したいと思います。 ▲ページTOPへ 『チャータースクールで教育はこうなる!』 逢坂喜郎2004/4 中教審が新しい答申を出しました。自治体が民間に費用を出し運営を任せるという公設民営学校の登場です。そもそも「公設民営」はアメリカで始まったチャータースクールに原型があります。 「チャーター」とは「特別許可」という意味で、地域住民が求める学校づくりを行政が応援する制度です。ですからチャータースクールとは「手作り」の公立学校なのです。ただ公的資金で運営されるため、プランどおりの教育効果が上がっていなければ閉校になるというのが普通の公立学校とは大きく異なる点です。自由な運営が出来る一方、結果には厳しく責任を問われるところに特徴があるのです。 ところで、このような新しい制度が生まれた背景には奇しくも日本と同じように公立学校への不信がありました。アメリカでは、公立学校における教育水準の低下が貧困や暴力とつながっていると危惧されています。例えば高3生の学力は現在、数学は先進国20カ国中15位、理科では12位だそうです。アメリカではかなり前から学力低下問題が起こっているのです。 中教審は、今の公立学校には「画一的で柔軟性や多様性に乏しく、閉鎖性が強くて地域社会との連携を欠きがち」という批判があると認識しています。日本版チャータースクールの詳細はまだ明らかになっていませんが、チャーター制度に移行すれば、少なくともチャーターの有効期間おきにその見直しが行われるため、効果の疑わしいプログラムが意味もなく継続されることがなくなることは確かで、カリキュラムを継続的に改善することが運営上必要不可欠になってくるのです。 教育はこれまで国家の事業とされてきました。歴史的には国民の教育権と国家の教育権が鋭く対立し、法廷で争われた時代もあります。いまは負担に見合うだけの行政サービスを受ける権利が強く意識されている時代です。教育界においても貴重な教育資源を効果的に投下するシステムを何らかの形で作り出さなければなりません。 今回の中教審答申では実績のある学校法人に委託する方針ですから、株式会社やNPOなどは除外されるので、純然たる民営とは言い難いところがあります。しかし一方でトヨタ自動車やワタミフードサービスのように異業種から教育の分野に参画する動きが目立ってきています。ノウハウや人材の問題もありますが、民間の活力への期待感も高まってきている表れだと考えます。今回の公設民営もさらに規制緩和され、制度が拡大すれば閉塞した教育界に風穴を開ける大きな可能性をもっていると言えるでしょう。 ▲ページTOPへ 『公の意識』 光岡誠司 イラクにおける人質事件では、被害者の無事解放はたいへん喜ばしいことでしたが、彼らを拉致したテロリストの卑劣さよりも、むしろ拉致された被害者とその家族の言動が大きな論争を呼びました。この事件は、“自由と責任”“個人と国家”という古い問題を改めて教育界に突きつけたような気がしていますが、学校の先生方は今回の事件を、子供たちにどのように話されたのでしょう。 公立であれ私立であれ、学校は税金で運営されていますから、将来、子供たちは公のために役立つ人間になってもらわなければなりませんが、日本ではその公が大問題です。 「人は生まれながらにして自由かつ平等である」というのは民主主義の大原則ですが、だからといって生まれてくる社会や国家までを選べるわけもなく、誕生した瞬間から、その特定の社会のありとあらゆる制約を受けながら成長していかざるを得ません。大人になってから、車を運転するだけでも、お酒を飲むだけでも税金を納めている(取られている)わけです。そして、その社会に子供を適応させるプロセスを『しつけ』とか『教育』と呼んでいるのであって、当然、そのやり方は各々の社会の伝統や特徴に応じて異なります。 個人の自由を最大限に重んずると言われている欧米社会ですが、そこでは、行動を起こす一人一人の『主体』のことを『subject』といいます。ところが、この言葉のもとの意味は『支配を受けるもの』です。キリスト教ですから、支配をするのは『神』。つまり、自由や個性尊重といっても、そこには強い神の支配、すなわち歯どめが有形無形で設けられているというしくみの中で、子供たちを教育します。 例えば、「ボランティア(自発)の強制」などという発想は、普通の日本人から見れば、“言葉の矛盾”以外の何ものでもないのですが、彼らにとっては神の意思ですから自然です。神の意を汲んだ一人一人が行動することを『主体的』と呼ぶのであって、決して好き勝手をするということではありませんし、ボランティアに参加する人が多いのは、何も他の民族より心が美しいからではなく、宗教活動、教育の一形態なのです。 一方、日本にはそのような絶対的な神が存在しません。その代わり「恥の文化」といわれるように、地域社会や学校などが欧米の神以上に強い“監視役”となり、恥ずかしいことはできなかったし、また、見ている人はいなくとも“おてんとうさまが見ている”とも言って公を意識させました。ところが何をしても“恥ずかしくない文化”の現在の都会では、それは機能しません。 そのような社会で、何ものにも束縛されない自由や個人主義を理想とした教育をしてしまったらどうなるか。校長に土下座を迫るような小学生の行動をたたえるような教育がなされたり、文字通り否定的な意味での“フリーター”の増加につながり、年金未納や買売春事件など人に迷惑をかけなければ何でもアリ、という発想を生んでいるように思います。 ご承知のように日本では、公として『国』を掲げる教育には、いまだに非常に強い反対が、特に学校現場にあります。しかし、本当にそれなしで公教育は機能するのでしょうか。私は現在の学校に大きな問題があるからこそ、次々と新しい学校が生まれているという認識でいますが、その学校の問題とは、子供たちが目指すべき公を作り上げることができていないということに収斂できるのだと思います。 『国』をすぐに戦争や差別に結び付けて議論していては、話が先に進みません。『公を抜きにした自由はない』ということを子供たちに教えることは、子供の個性や夢を押しつぶすのではなく、夢を追うための足場をしっかりと認識させる重要なことだと考えます。 ▲ページTOPへ 『日本の理想郷はあるのか』 佐藤竜二 最近の世論調査では、半数以上の人が憲法改正に賛成しているそうです。一方、学校教員のあいだでは憲法擁護派が多く、中学校の社会科授業などで、憲法九条の大切さが、第二次大戦の反省とともに語られています。 ある中学校の授業では、日本が見習うべき「平和国家」の理想として、中米コスタリカを取り上げていました。なぜならば、コスタリカは世界で唯一『非武装永世中立』が憲法に明記してある国であり、その憲法により、大統領がノーベル平和賞を受賞したことがあるからです。あのスイスが「永世中立」だったことに比べ、さらに「非武装」ですから、当然といえば当然です。 私はコスタリカと隣国ニカラグアに3年間滞在したことがあります。エコツーリズムなど観光地として有名で、中米の中では比較的治安もよく、気候も穏やかで外国人にとっては住みやすいという印象を持ちました。 しかし、一見理想郷のように見えても、『非武装永世中立』の看板の裏にある歴史的背景や経済状況を示さずに、コスタリカを日本が目指す「理想国家」であると授業で信じ込ませることには、とても賛成できません。 世界地図で見ると、北アメリカと南アメリカを繋ぐ細長い地域に位置する小国が、内戦や紛争が絶えない隣国を尻目に、なぜ平和憲法を貫き、経済的にも発展しているのかを考えると、日本の未来像が見えてくるかもしれません。 中米では、コロンブス以来西欧の植民地政策により、多くの原住民が殺されました。コスタリカでも何百万人もの原住民が短期間で虐殺されてしまったため、隣国パナマ、ニカラグアに比べて白人の比率が高いとも言われています。 そのせいか、アメリカ資本を背景に観光産業や教育にも力をいれ、現在、首都や観光地ではどこでも英語が一般的に通じます。海外投資家や大地主たちは、計画的インフレ政策に乗り、銀行にドルを預けているだけで莫大な富を手にしています。 アメリカ人からは、「中米のハワイ」と呼ばれ、そして、このあたりの事情が日本に酷似していると感ずるのですが、国民は、自国が(隣国よりは)平和で豊かであることだけを誇りにし、英語を話せない現地人は馬鹿にされます。 この国の「平和憲法」は、アメリカに迎合しアメリカ化することで成り立っていると、国民は皆分かっています。それゆえ隣国ニカラグアの反米抗争の歴史を野蛮だとし、国内で起こる犯罪は隣国人のせいだというのです。コスタリカ人が自国を本当に意識する瞬間は、サッカーに熱狂するときだけだと思ってしまうのは私だけでしょうか。 私も、日本だけでなく世界が平和であることを強く願います。しかし、日本人の誇りは失いたくありません。自立した大人だからこそ、他人と対等に、互いに良い影響を与えることができるように、自立した国家として他国と対等に付き合っていくべきだと考えます。 教育者も人間ですから自分の思想や考えを当然持っています。しかし、その考えが正しいという思いが強いあまり、子どもたちにその考えを押し付けるようなことがあってはいけません。学校だけでなく学習塾においても、子どもたちに一つの偏った考えを示すのではなく、様々な考え方を子どもたちに提示し、日本の方向性について子どもたちが真剣に語り合える授業を創っていかなければと思います。 生徒たちに、コスタリカにはすばらしい平和憲法がある、ということを教えるよりも、なぜ世界約200カ国の中で、小国コスタリカにしか平和憲法ができないかということを考えさせるような教育こそ、世界に子供の目を向けさせる上で大切な授業ではないでしょうか。 ▲ページTOPへ 『やる気を引き出すプラス思考』 福原 洋 アテネ五輪が目前に迫ってきました。オリンピック選手に限らず、スポーツ選手なら誰でも目標を掲げますが、やっかいなことに目標があるからといって必ずしも“やる気”が出るわけではありません。達成したい目標があるのにやる気が出ない、行動できない、という悩みを持つスポーツ選手も多いのですが、受験生のみなさん、心当たりがあるのではないでしょうか。 これについてあるスポーツ心理学者は「成功したい」と「失敗したくない」という、方向が逆向きの二つのベクトルのせめぎあいだと説明しています。「成功したい」という気持ちは強く持っているが、それが強いからこそ、同時に「失敗して自分が他人より劣った人間だと思われたくない」という意識も存在します。失敗して傷つくのは自分ですから、実際に失敗してしまう前に,行動をしないことで無意識のうちに失敗を避け自分を守ります。 それが普通の人間の心理ですから「やる気を出す」というのは、実は本人に相当な勇気がいることですし、我々の立場から申し上げれば、生徒たちに「やる気を出させる」のは、勉強を教えることよりもはるかに難しいことだとも言えます。 そこでスポーツでは、通常の肉体的トレーニング同様に、いや時にはそれ以上に重要視されているのがイメージトレーニングです。その目指すところは、究極的には「心の中をプラス思考で満たす」ことで、例えば自分が勝利する姿をイメージして、「負けたらどうしよう」とか「失敗するのでは」などのマイナス思考を払拭してしまいます。 オリンピック選手やプロ野球選手、F1ドライバーなどいわゆる“一流”と呼ばれる選手であれば誰でもイメージトレーニングの重要性を認識して実行しています。ただし選手が自分一人の力で“プラス思考”を実践するのはそう簡単なことではありませんので、それをサポートするコーチやトレーナーの役割が、決して目に見えなくとも決定的に重要になってくるわけです。名選手の影にはほぼ確実に、技術はもちろんのこと、努力する勇気を与えてくれる名コーチの存在があります。 高度の訓練に耐え、強烈なプレッシャーの中で「勝負」に臨むスポーツ選手の姿は、入試を目指す受験生の立場と質的に変わらないはずです。受験生にとっての「プラスのイメージ」とは例えば、希望の高校のキャンパスの中を歩いている自分の姿であったり、希望の大学・学部で希望の学問に心ゆくまで没頭している自分の姿、などでしょうか。 スポーツ選手が本番での勝利を「空想」ではなく「本気」でイメージするように、皆さんも本番での合格をリアルに、現実のものとしてイメージして、プラス思考を持って日々の学習に励んで頂きたいですし、我々はコーチ役として、生徒に劣らぬ努力を重ね、目標達成まで生徒を導いていかなければならないと考えています。 ▲ページTOPへ 『少年犯罪と情報教育』 田上直樹 昨今よく言われる少年犯罪の「増加」「低年齢化」「凶悪化」。報道では連日少年少女による犯罪が取りあげられ、ニュースキャスターも「いったい今の少年達はどうなってしまったんでしょうねぇ」とため息交じりにかぶりを振る。 インターネット上のウェブサイトで少年犯罪データベースというものをみつけた。http://kangaeru.s59.xrea.com/ 過去50年以上にわたって年度ごとの少年犯罪の発生件数を統計的に取りあげ、またそれぞれの事例を簡単に紹介もしているものである。見ていくうちに、自分がある違和感に囚われていることに気づいた。 最近5年間の微々たる増加はともかく、統計的に少年犯罪はかなり減っているのである。また低年齢化ということも見られず、凶悪化ということに関しても、事例を読み解く限りではそんなことはない。皮肉なことに、最近の少年を嘆いていたニュースキャスターが少年の頃(昭和35年頃)には現在の2倍以上の件数の凶悪な少年犯罪が起こっているのである。 しかし、現実に共通認識として「増加」「低年齢化」「凶悪化」という考えがあるのはなぜだろうか。考えられることは、報道が、(世間に与える影響の善悪は別にして)その商業主義からインパクトだけを考えて情報を伝える傾向が強くなったのではないか、ということ。そして我々は思考が停止した状態で、受動的に情報を捉えているのではないか、ということである。 インターネット普及に伴い、取り扱われる情報量は急激に増加し、今や情報過多の時代と言われる。「人間は真実ではなく、信じたいことを信じる」とはよく言われることであるが、少年犯罪の情報もその一例で、我々は常に情報に関して真偽を判断し、必要な情報を取捨選択していく姿勢を持たなければならないのではないか。 情報が氾濫する時代には、「どれだけ多くの情報を集めることができるか」よりむしろ、「どれだけ真実を見極めることができるか」ということが重要である。問われるのは、得た情報を判断する「論理的思考能力」であり、情報の発信者の意図を読み取る「行間を読み解く力」ということになってくる。最近の企業が求める学生の人物像として「論理的思考能力を有する」「コミュニケーション能力を有する」ことが挙げられるのも興味深い。(「行間を読み解く」は広義に解釈すると「コミュニケーション能力」とも言える) 情報教育の一環として、低年齢の頃からパソコンに触れる機会を持たせることが重要と捉えられがちであるが、「見極める力」抜きで情報の渦巻く中に子供を放り出すのはあまりに危険で無責任ではないかと思う。それこそ情報の取捨選択がうまく出来ず、閉じた空間の情報のみを真実と捉えてしまい、偏った考え方しかできなくなるのではないだろうか。昨今の少年犯罪の一部も、このような情報教育の弊害が原因であると思われる。 それよりも、「論理的思考」をトレーニングするための数学教育、「行間を読み解く力」をトレーニングするための国語教育に、より一層の力を入れるべきだと思う。情報を集める技術(スキル)は、社会人になってからでも充分習得できるのである。結局は基礎学力の充実が真の意味での情報教育となるのではないだろうか。 ▲ページTOPへ 『ジェンダーフリーからの解放』 逢坂喜郎 「女の子なんだからおしとやかに」「男なんだから泣くんじゃない」このような「男らしさ」「女らしさ」(ジェンダー)から子どもを解放し「人間らしく生きる」というのがジェンダーフリー教育と呼ばれます。 確かに活発な女の子もいますし、内省的な男の子もいるので、それを社会的な枠組みに無理やり閉じ込めるのは良いことではないという主張には一瞬頷かされます。 しかし、これにより必要な男女の区別まで全て「差別」だとされ、徹底的な男女「平等」教育が全国各地で実践されてきました。 学校の出席簿を男女混合名簿にしたり(都内では今年4月現在、小学校81%、中学校42%、全日制高校83%で導入)、男子も女子も「さん」付けで呼んだりと、形式的に平等な扱いにすることが善しとされています。そして体育の際の着替えや合宿での男女同室の扱いなど、明らかに生物学的な性差までも無視した「教育上の配慮」が行われており、社会問題となっております。 神奈川県の男女共同参画室では、「男の子だけでサッカーをしたり、女の子だけで縄跳びをしたりしているのはよくない。男女が混ざってやっているとよい」としています。水戸市条例では、「家事、育児、介護などに対して経済的評価(=カネ)を与える家族をつくろう」とあります。深夜まで残業して帰ってきた父親に「あんた、私も残業になるんだから時給二千円よこしなさい」などと要求している母親を目にしたら子どもはどう思うのでしょうか。 さらに、ジェンダー論者は、おじいさん(男)が山へ柴刈りに(仕事)、おばあさん(女)が川へ洗濯に(家事)といった昔話は「おかしなかたより」があるとし、性別役割意識を小さい頃から刷り込んでしまうので、子供たちに読ませてはいけないという、笑えない主張を大真面目にしています。 このように実社会での慣行など完全無視のジェンダー教育を受けた子どもたちが、社会に出て適合できるとは到底考えられません。伝統的な徳目や社会秩序が失われることはもちろんのこと、性差を踏まえたうえで互いを思いやるといった当たり前のことすら無くなってしまうのではないでしょうか。 ジェンダーフリーの先輩格であるアメリカでも「8割の男女がこの役割変化のせいで育児がより困難なものになっている」「7割の男女がこの役割変化のせいで結婚を成功させることがより困難なものになっている」という調査結果が報告され、警鐘が鳴らされています。アメリカとは比較にならないほど長い歴史のある日本文化が、そのあとを追う必要があるのでしょうか。 とうとう東京都が動き始めました。この9月以降、教育現場から「ジェンダー」という用語が姿を消します。先に述べた「男らしさ」「女らしさ」のレベルから男女同室の着替えに至るまで「意味や内容が使用する人によってさまざまで、誤解や混乱が生じている(都教委)」のが現状ですから、正しい男女平等教育を行うための適切な行政指導だと思います。 一部の市民団体や教職員からの強い反発が予想されますが、行き過ぎた性教育にブレーキをかけ、歪んだ平等思想を是正するために、この動きが全国に広がっていくことを期待したいと思います。男女が互いの差異を認め合って豊かな社会を形成するという当たり前のところに立ち戻るべき時に来ているのではないでしょうか。 ▲ページTOPへ 『教育理念と理論のあと付け性』 徳永康之 「先生はな、君のためをおもって言っているんだぞ。(深刻な表情とともに)」 今でこそ、こういう言葉をかけてくださる方は、(私の年齢的にも)本当に貴重になり、心底ありがたいと思いますが、実は、自分が中学生から高校生のころには、この手の言葉に、なんとなく違和感を覚えました。 「本当に僕のためになること、先生にわかるのかなぁ?」 言い換えると「先生の考える『君のため』は、本当に『僕のため』になっているのだろうか?」。あるいは「過去の価値観に基く先生のいう『君のため』は、現在を生きる『僕』にとって、本当に『ため』になっているのか?」、という疑問です。 もし先生の価値判断が、『僕』の価値判断と、決定的に異なるのであれば、先生の独善的な判断である『君のため』は、『僕』が今重要だと思っていることを否定しているのではないか、という違和感を生じさせる、ということです。 先生が、自分の生徒時代の経験や、教師になってからの指導経験に基き、生徒指導のために持っている一定の価値判断のことを、ここでは、「広義の教育理念」と呼びます。 教育理念とは、通常、学校にせよ、塾にせよ、組織として掲げる教育理念を意味すると思われます。それらは、例えば「ゆとり教育」であったり、または「成績最重視教育」であったり「基礎学力定着第一教育」といったものです。そして、これら教育理念は、それぞれの組織の目的や立場によって様々です。 さらに、個々の先生方は、これらの組織として掲げる教育理念に加えて、「広義の教育理念」をもって、日々、生徒に接していると考えられます。 さて、組織として掲げる教育理念、と「広義の教育理念」は、その内容は多種多様ですが、どちらの理念にも共通する特徴があります。それは「理論のあと付け性」です。 「理論のあと付け性」とは、「社会に関するすべての理論は、ある統計データや、過去の直観的経験に基づいて形成されるかぎり、将来の出来事の予測に、誤りを生じる可能性が常にある」ということです。 小難しく、かっこよく定義しましたが、具体的な内容は、別段難しいわけでもなく、たとえば 「過去の『タイプ』によって、特定の子の指導内容や目標を決定したところ、子供が不完全燃焼感を抱いたり、詰め込みで燃え尽きたりしてしまい、結果として指導に失敗した」とか「過去の同学年の興味や水準に照らして、新しい生徒たちに厳しい評価をしたが、別の評価すべき新しい側面を見落とした」などです。 要するに、組織の掲げる教育理念も、「広義の教育理念」も、それが過去のデータや経験に基づくものである限り、目の前にいる生徒さんの指導において、予測をくつがえさせらせる可能性は常にある、ということです。 それを踏まえると、個人特訓教室で講師という立場にいる私が、常に心がける(戒める?)べきことは自ずとはっきりしてくるような気がします。 それは、「たとえ、同じ子に、同じ教科を、毎週同じ時間に、教えているとしても、その都度、その都度、先入観なく、相手の感じていることや、思っていることを汲みとりつつ、最善な形で授業を行う」ということ。 当然なこととお叱りを受けそうですが、それでも、私にとっては非常に難しいことです。なぜならば、私がそのとき考えた『最善』が、そのときのその子にとっては、『最善』ではない可能性が、常にあるのですから... ▲ページTOPへ 『教員免許更新制』 伊藤義巳 新しく誕生した中山文部科学大臣は就任早々、『教育にも競争原理を導入すべき』との考えを示し、『教員免許の更新制の導入』について中教審に諮問しました。 教員免許の更新制度についてはいくつか問題点があるものの、私は賛成です。大学で必要な単位を取り、ほんの2・3週間の教育実習さえクリアすれば、誰もが免許を取得できるシステムはあまりにも安直です。 さらに採用試験に合格した後においても、実際に指導力不足教員の数が増え続けている上に、教員の不祥事も、相変わらずというより、ますます増加している印象を持ちます。無断欠席や、遅刻早退を繰り返す教員が数ヶ月間の停職ですまされる実態を看過できるのでしょうか。少なくとも一般企業なみの職業倫理がなければ、教員を続けることができないようなシステムが必要だと思わざるを得ません。 学級運営が上手くいかず、心労により数ヶ月も休職をする、不祥事を起こし処分を受ける、入試問題が解けないような学力不足の教員たちが、スキルアップの努力もせず、身分が終身保証される緊張感のない実態が教育をよくするとは思えません。そして、こうした教員がもし、自分の子供の担任になったとしたら安心して子供を預け、信頼することができるでしょうか。 学校は教員の力によって成り立っており、教員の質が教育力の全てと言っても過言ではないと考えます。地域社会や保護者の協力と理解を得るために、教員免許の更新という審判を受け入れ、周囲に力を認められた教員であって欲しいと思うのです。 日教組委員長は免許の更新制に関し、ここでは詳細を割愛しますが『膨大な報告書等の提出により、子どもと向き合う時間、授業の教材研究の時間を奪っている。そこに更新制を入れてもゆとりのないなか、不安感を増すだけだろう。まずは余裕をつくりだすことが前提となる(朝日新聞より)』などを理由に、明確に反対の意を表明しています。 冒頭の中山大臣の教育にも競争原理を導入すべきという発言は子供ではなく、教員に対しても当てはまるものと考えます。子供の将来を憂慮し、教育現場を建て直すためには教員の力が不可欠なのです。一般の民間企業ならば当たり前のことが通じず、自らの実力を省みることもせず保身のみを考えるならば、到底更新制度は受け入れられないでしょう。 保護者や子供たちからも期待されている教員のやる気や実務が正当に評価されず、一律な評価と待遇を受けることに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。今こそ、一労働者としての教員ではなく、聖職者へと戻るチャンスと考え、是非実現して欲しいと願います。 ▲ページTOPへ 2004年教育界10大ニュース 今年の教育関係のニュースの中から、当教室の生徒のご父母にアンケートをお願いし、関心度をランキングしたものです。では10位からまいります。 【第10位】【753現象・8割の雇用主が若者に原因ありと回答】 中卒の7割、高卒の5割、大卒の3割が就職後3年以内に離職しているという調査結果が出ました。フリーターが200万人(内閣府によれば417万人!)を超え、ニートと呼ばれる、職探しもそのための訓練も受けていない人々が52 万人もいるという報道が大きな衝撃を与えました。 【第9位】【親世代に比べ体格は向上、体力運動能力は低下】 勉強だけでなく、子供の運動能力、健康などにも高い関心が寄せられました。運動不足や、運動しても一つの種目に限定していることが原因? 【第8位】【父母の6割がゆとり見直し論】 都立高校PTA連アンケートでは、6割の父母が週6日制または隔週5日制に戻すべきと回答しました。ゆとり教育から学力重視路線への転換を求める声が過半数を超えたというのは驚きです。 【第7位】【精神疾患で休職の職員が過去最多】 教員病気休職者の5割以上が精神疾患という数字が公表されました。これもまた父母を不安にさせる数字です。休職・復帰を繰り返す教員も多く、教員の労働実態の解明を望むと同時に、生徒への影響が心配されます。 【第6位】【長期欠席、小中生で5万人】 このうち1万人は、教員とも相談所職員とも接触不可能という結果で、虐待の疑いもささやかれています。また、今年の特徴として、校内暴力は3年ぶり、いじめも8年ぶりにかなり増加しており、学校離れが加速していないのか心配 になります。引きこもりの増加といい、いずれも望ましくない傾向です。 ■第5位■【少人数学級、9割の教育委で導入】 このニュースが5位に入るということは、いかに父母が1クラスの規模に敏感かということの表れでしょう。40人は多すぎるというのは、ほぼコンセンサスができているように思われるのですが、東京都は導入していません。せめて30 人にという要求は依然として国に無視され続けており、自治体が先導した形です。動け!文科省。 ■第4位■【佐世保の小6同級生殺害事件】 あまりにも衝撃的な事件であり、情報モラル教育論争に波及しました。この事件からどのような教訓が導き出せるのか、難しい問題です。また、年末になり奈良で小学生が殺害された事件などもあり、通学も含めた学校の安全性ということも大きな話題になりました。防犯カメラや防犯マニュアル作成、警備員配置などということも現実のものとなりつつあります。 ◆◆◆第3位◆◆◆【公立高校の基礎学力『大幅低下』87%】 公立高校教員アンケートの結果です。87%が生徒の基礎学力が大幅に低下している、82%が学校間の格差が広がると回答しています。高校入学前の小中校のカリキュラム、その制度を導入した文科省に責任があることは明らかですが、だからといって高校でこの状態を放置することは絶対に許されません。 そもそも9割近くが“大幅低下”を認めるということは、“教育非常事態宣言”が出されたのに等しいのだ、という認識が文科省や現場にあるのでしょうか。せめて、“公立高校が私立進学校の下位に定着するということを何としても阻止するのだ!”そういう決意表明だけでも欲しいものです。 ◆◆◆第2位◆◆◆【指導力不足教員・全国で481人】 指導力不足の教員数が、昨年、一昨年に比べ大幅増加と伝えられました。各教育委員会の認定方法などが外部にはわかりませんが、言えるのは“教員の質”に対する世間の目はますます厳しいものになっているということです。 外部評価を導入する学校も増え、なるべく地域に開放しようとする試みもなされています。また、教員の採用方式の改善、民間校長招聘など、懸命に改善に取り組んでいる自治体や学校も多いのですが、もっともっとスピード感のある大胆な改革が望まれます。 ◆◆◆第1位◆◆◆【絶対評価で「5」の格差が最大45倍(横浜・公立中)】 本メルマガでも繰り返し、絶対評価の不合理性を指摘しました。予想通りの問題が、予想以上の規模で噴出したにもかかわらず、効果的な制度改善はなされていませんし、それができないことが絶対評価の本質であるということを責任者たちは理解していないのでしょうか。 ここ数年の高校受験は混乱の極みです。学力データの豊富な塾でさえ進路指導がままならず、まして定期テスト結果しかデータのない学校は完全にお手上げ。受験生は極端にレベルを下げるか、一か八かという選択を迫られます。その不合理を補うために、私立高校が集まって決定した一斉テストの実施も、中学校長会の反対でつぶされたままになっており、怒りを禁じえません。 確かに、絶対評価を“公平”なものにしようとする、学校の先生方の評価基準作成の苦心も大変ですが、ウマのあわない先生にあたってしまった生徒も悲惨です。何とか切り抜けても、その年の他の中学校との格差は誰もわからない。こんな不公平な制度はすぐに廃止するか、せめて相対評価を併記すべきです。 ■■■■■【2004年総括】■■■■■ 光岡誠司 いったい、ゆとり教育を導入した責任者たちは、その結果や影響を注視しているのでしょうか。このカリキュラムによって“生きる力”ははぐくまれつつあるのか、“心の教育”は実を結び、子供たちは自主的で勉強好きになったのか。 今年のランキングを眺めますと、ゆとり教育導入時に、その弊害と危惧されたものが、そのまま大きな問題としてご父母に意識されていることがわかります。ところが、新聞・テレビでは、少年犯罪は大きく取り上げられますが、学校問 題や、学力低下に関する特集はすっかり影を潜めてしまった印象です。 相変わらず注目度が高いのが、教員の質や不祥事にかかわるものです。ただ不祥事とは言っても、 “教員”と呼ばれる人の数は全国で百万人を超えますので、そのすべてが品行方正であるとは到底思えませんし、塾講師も(警官であれ、弁護士であれ)同様で、従って、それは教育の本質的な議論のようで実はそうではありません。 問題なのは、塾講師が、不祥事どころか、わからない、成績が上がらないというだけの理由で即交代するか、さもなければ塾自体が消滅するのに対し、学校では、よほどのことでもなければ、その身分、厚遇は保証されてしまうという制度です。従って、生徒の状況は一向に改善されませんし、しばしば、生徒が辞めても問題教員は辞めずにいつまでも残るという“しくみ”になっています。 その“辞めないしくみ”のため、教員の平均年齢は今や40歳を越える一方で、資格もやる気も指導力もある教員志望の若者には、教員採用の空きはなく、彼らは塾講師になるわけです。 まずは、問題教員をすぐに交代できる制度改革を作り上げることによって、早急にこの段階の議論から抜け出さなければなりません。しかるに現在は、国の教育の根本理念、教科書は“ゆとり”のままで、採用やカリキュラムなどの改善策は教育委員会や各学校に丸投げ状態です。 数日前に発表されたOECDの2003年国際学習到達度調査において、日本は、各項目で前回2000年から大幅に順位を下げました。文科省が学力低下否定の根拠にしてきた数値が低下し、トップ水準から落ちていることが初めて明確になりました。その上、家庭学習の時間は少なく、生徒の教師に対する敬意、教師のやる気も日本は世界最低レベルと報じられているのです。 さらに年末になって、小4、中2の数学、理科の基礎学力をみる国際調査(TIMSS)の結果が発表されました。ここで問題なのは日本の学力低下が裏付けられただけでなく、文科省がゆとり教育で強調していた、生徒の意欲、自信が、何と参加46カ国中の最下位という結果です。 ここまでデータがそろえば十分です。ゆとり教育に別れを告げ、新しい教育観を描かなければ、さらに全体の学力は低下し、さまざまな形で社会問題として顕在化してくる可能性が非常に高く、すでにその兆候が見られます。英、米がその道をたどっており、日本がその轍を踏むわけにはいかないのです。 文科省はメンツにこだわらず、大胆な政策転換を実行すべきです。教員のみなさんは大幅な採用方式の転換を受け入れるべきです。かつて日本の驚異的な成長の秘密とまで言われた、世界一レベルの高い公教育システム、それに対する生徒・家庭の信頼が地に堕ちたままでは、教育の再生など夢物語です。 ▲ページTOPへ <close> |
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