|
タイトル 「私の高校時代」
筆 者 岡崎秀樹
所 属 元個人特訓教室講師
掲 載 未掲載
この原稿の依頼が来たとき、もうすでに大学受験から9年以上の歳月が過ぎているのだという現実に改めて気付き、ただ驚くばかりです。自分の中では、つい昨日の出来事のように鮮明な記憶が残っています。
実は私は高校受験に完全に失敗し、入学したのは第3志望の学校でした。しかし、人間の運命というのは不思議なもので、その「自分にとっては不本意な」高校時代の中で、様々な人物と出会い、それが現在の私のベースになっています。
最も影響を受けたのは、英文法の先生です。高校の専任教員ではなく、大学院で英語史の研究をしながら、非常勤講師として来ている方でした。この人の特徴は、驚かれると思いますが、「自分から授業をしない」ことなのです。「勉強を人に教わろうなどという意識を持つこと自体が甘い。自らの力で探求し、限界ぎりぎりまで努力をして、それでも解決できない部分だけを質問しなさい。それが君たちの力を最大に伸ばすことになる。その代わり、俺は君たちに何を聞かれても大丈夫なように、完璧な準備をしてくるよ」これが先生の口癖でした。
こんな変わった先生なので、その真意を理解できない人間も多かったのですが、私はこの人物に非常に大きな興味を抱き、いつの間にか自宅に訪ねていって本を借りたり、食事をご馳走になったりするような関係になっていました。色々な本を取りだしてきて、英語について熱っぽく語る姿には、「さすが英語学者!」と感心してしまい、私自身も、受験英語という枠を完全にはずれた、英語そのものの研究に興味を持つようになりました。ロバート・リンドのエッセイ、サマーセット・モームやヘミングウェイの小説など、膨大な量のペーパーバックを読みあさり、卒業する直前には、シェイクスピアの「ハムレット」を、原書のまま読破しました。
京都大学の受験には、5教科6科目(社会は2科目必須)の勉強が必要だったのですが、勉強らしい勉強をしたのは、英語だけだったような気がします。それも、受験用の教材というものを1つも用いることなく、ただひたすら、自分の好きなものを研究したという感じです。それでも模擬試験などではA判定を連発していたし、本番でも全く不安なく試験に臨み、合格することができました。
以上の通り、私の高校時代の勉強法というのはかなり特殊であり、他の人にお勧めできるような代物ではありません。しかし、自分の経験を通して思うのは、「役に立つのか立たないのか」「試験に出るのか出ないのか」などという視点しか持てないようでは、勉強も面白くなく、やる気も湧かないものだということです。自分なりに興味を持てること、好きなことを見つけ、それを中途半端にすることなく、徹底的に追及する。そうした地道な努力を継続していれば、自ずと自分の望む結果というのは出てくるものなんです。
何の因果か、今は私が中学生・高校生に英語を教えるという立場になりました。今の私は、尊敬する高校時代の先生の足元にも及びませんが、それでも自分の授業を受けることによって、英語という言語に興味を抱き、本気で研究しようという気持ちを持ってくれる生徒が出てきてくれるよう、日々考えています。
<コーナーTOPへ>
|